急に寒くなってきました。
今年は暖秋だったので、東京あたりは、紅葉もないままに冬突入という感じです。
考えてみれば、私にとっては、今年2回目の冬。なんたって、夏場に、冬のチリに行っているんだもの。
だもんで、今年の冬はちっとはラクなんじゃないかなと思っていましたが、甘かったですね。やっぱり寒いものは寒い。
しかし、チリで買ってきたお土産のマフラーやショール(お土産というだけではなく、チリ南部のあまりの寒さに、自分用に購入したものも含めて)がやっと役立つのは、ちとうれしかったりします。じつをいうと、チリから帰った日本は酷暑の真っ盛りだったので、アルパカのマフラーなんていう、超暑苦しそうなお土産をあげても誰も喜んでくれそうになかった(どころか、顰蹙を買いそうだった)ので、あえてとっておいて、今頃、家族などにあげて喜ばれています。
そういえば、チジャンでポンチョを買っていたディレクター氏は、アレを今頃着ているのだろうか。エスニックな衣装を好む彼は、「いやぁ〜、冬物のエスニック衣料ってあんまり東京じゃ売ってないんで、ちょうどいいなあ」と、喜んで購入しておられましたが、チジャンでは妙に似合っていた(地元に溶け込んでいるともいう)「らくだ色」のアルパカのポンチョは、渋谷の街中では、かなり注目を引くグッズであろうことは間違いなさそうです。
このところ、妙な貰い物が続きました。
ひとつは、渋柿。
「ひょっとすると甘いかもしれないから。渋かったら捨てて」と、近所のお爺さん。彼の家の庭には立派な柿の木があるのですが、95%ぐらいが渋柿なのだそうです。で、残りの5%が、甘柿ね。
で、上の方をちょっとだけ削ってみると、これが、ぜんぶ渋。だいたい、私って、福引きでも赤玉を引くタイプだからなあ。
でも、捨てるには惜しい、かなり大ぶりにして見目麗しい立派な柿だったので、渋抜きに挑戦することにしました。ほんとは焼酎でやるのですが、焼酎を切らしていたので、ラムの安いやつをヘタに塗って、冷蔵食品の宅配便の入っていた発泡スチロールの箱に、林檎一個と一緒に入れます。林檎は甘みを増す効果があるらしい。
で、そのまま、一週間放置。
想像以上にトロリと甘い熟し柿が完成。たまたま遊びに来てくれた知人2名も激賞。
もうひとつは、近所の商店街のおばさんから「お願いだからもらって、まずいお米」。
なんでも、田舎に住んでいるお婆さんが趣味で作っているお米を、お世辞で誉めたら大量に送ってくれたのだそうで。その米が、「とにかくまずい」「冷えたら最後、食べられたものじゃないのよ」
そこまでボロクソに言ったら、お米が可哀想じゃんねえ。
だいたい、タイ米をまずいという日本人は多いけれど、あれは、「タイ米がまずい」のじゃなくて、「タイ米という別種の穀物に、日本米の調理法が合わない」だけなのです。チャーハンやリゾットにすれば、あれほど美味しい米はない。
まあ、この場合は、日本米には違いないので、炊き方の問題じゃないの?
と言ったのが、運の尽き。そのおばさんに、(もらった半分らしい)10キロも持ち込まれてしまったわけ。
で、試してみました。
うん。これはたしかに不味かった。なんともいえず、ふっくら感に欠け、味わいがない。
さすがにプロが作るものとは、明らかに違うという感じ。米に詳しい人によると、冷害や病害虫に強い米(つまり、誰にでも作りやすいお米)というのは、まずいのだそうで。
しかし、10キロであります。これを延々と食べるのは、日本米であるだけ、正直きつい。というわけでまた工夫。
たしか、大阪時代に親しくしていた寿司屋の親父も言っていたではないか。「飯の旨さは、ブランドじゃない。炊き方だよ」
(今の近所の洋食屋のシェフといい、非素材主義者が、わたしの周囲に多いのはなぜ?)
ほんとは、土鍋で炊くのがいちばんおいしいし、それが駄目でも、ガス釜ならかなり米の味は変わります。
ただ、主婦なら良いけれど、ご飯を炊く間そばについているのは、毎日となるときつい。さらに、うちはガス釜が使えない。噂では電気釜でも「圧力釜」というのは、相当違いがあるらしいけれど、いまある電気炊飯器を使えるのに買い換えるのも、ちょっともったいない。
ということで、比較的安易なやり方をいろいろ試してみました。
で、結論。もち米を少々ブレンドし、日本酒と備長炭を入れて炊く。
別のお米になりました。ブランド米とは言わないけれど、「けっこうおいしい」程度のお米。
誤ってまずいお米を買ってしまった人は、一度お試しください。もちろん、試さなくてすむ方がいいに決まっているんですけど。
などと言いつつ、お米をくれた商店街のおばさんにもレシピを伝授。そしたら、「お婆さんがまた送ってきたの。これからいくらでも持って帰って!」
そうなると、米代が助かるのは確かだけど、じつは私は、ここ数年、ずっと玄米7分づきを食べているのです。これを食べるようになってから、以前は、ビタミンBの錠剤が常備品だったのに、いまや、にきびや口内炎、肌荒れ知らず。せっかく、綺麗な肌を取り戻したのに、白米食にちょっと戻りたくはないなあ。
中国の神舟5号が打ち上げ成功する一方で、日本はたかが人工衛星でまた失敗。
もちろん、日本が世界に誇るべき技術は多くて、それらの多くは町工場の職人さんたちの水準の高さを示してはいるのだけれど、それとは別に、もっと大きなところで、日本の何かが崩れているような気がするのは、わたしだけだろうか。
日本にいると気がつかないのだが、すでに、国外では、かつて日本が王座に君臨していた家電での覇権は崩れている。
たとえば、20年前なら、メキシコ人は日本製の家電に憧れた。10年前には、高品質の日本製と価格の安い韓国製との間で迷った。
いまは、韓国製の家電製品は、質の点でもデザインの点でも、日本と遜色ないか、むしろサービスなどの点で優れてさえいる。
これであと10年たてば、メイド・イン・ジャパンのシェアはどうなるだろう。
いつも気になっていたことだが、中国人・韓国人と日本人の決定的な違いが一つある。
儒教文化が根付いているせいか、中国人や韓国人は、同胞を大事にする。とくに異国の地にいるときには。親戚でなくても、紹介がなくても、とりあえず、新参者は、チャイニーズタウンなりコリアンタウンを訊ねれば、とりあえず住むところや働くところを世話してもらえる。才能があれば、どんどん引いてもらえる。
これは在日の人にもいえることで、在日の人は、なるべく在日の人に仕事を融通する傾向がある。在日の映画監督は、在日作家の作品を取り上げ、在日の俳優を使い、在日のカメラマンを使う。もちろん、才能は重要だが、同じ才能であるなら、必ず同胞を使う。あるいは、同胞を優遇する。
(これは、批判ではなくて、誉めているのである)
そして、その逆をいくのが日本人である。
日本人は、あとから外国に来る同胞を「自分の既得権益を脅かす存在」と見るか、あるいは、金蔓にすることしか考えていないという人たちが残念ながら、かなり存在する。外国事情に疎い同胞は、絶好のカモということだ。現地相場の何倍にもあたる手数料は当然だし、詐欺紛いの事例は多い。大使館の人間自体、それを認めているというのが現状だ。
(と、これを書いてから、別件でもたもたしていたら、アップロードする直前の11月30日、大使館の人2名がイラクで殉職。だもんで載せるべきがどうか数日迷ったが、上記の件についても以下のことについても、事実は事実なので、やはり掲載する。
冷たいようだが、これだけイラクが泥沼化していて、なおかつ、日本政府がアメリカ追従外交をおおっぴらにおこなっているときに、イラクで自分たちがどのような立場にいるかを冷静に判断できるかどうかが、大使館なり外交官の重要な職務であり、情熱や根性論はまったく別の次元の問題である。それを混同するのは、おそろしい話である)
そして、もっと言ってしまうと、日本の大使館とは、たぶん、世界でもっとも自国の国民の安全にも、国益にも興味を持たないところだ。
実話だが、ある日本人男性と彼のメキシコ人妻と子供が、メキシコに妻の里帰り旅行に来て、帰りの飛行機に乗る少し前、メキシコシティで、交通事故に遭った。両親はかすり傷程度だったが、赤ん坊が大怪我を負い、手術のために、緊急輸血が必要になった。
ところが、赤ん坊は、父親に似てA型だった。
A型は日本ではもっとも多い血液型だが、メキシコでは少数派になる。
病院で用意できたA型の血液では足りない恐れがあったので、医師は、両親の友人知人に当たって献血者を集めてくれと頼んだ。そこで、父親は、大使館に電話をかけたのだが、そのときの大使館の返事が凄かった。
「勤務時間外なので、月曜の朝にかけてください」
金曜の午後5時数分過ぎだったという。
たしかに、勤務時間外かもしれないが、まだ、大使館内には大勢の人が残っていたはずの時間である。しかも、赤ん坊の手術で緊急だと伝えているのにもかかわらずだ。
電話口で食い下がる父親に、さらに、大使館のスタッフはこう言ったという。
「奥さんが、メキシコ人なんだから、そちらの方(のコネ)で捜したらいいでしょう」
たしかに夫人はメキシコ人だが、彼女はメキシコの地方都市の出身で、彼らがメキシコシティにいたのは、まさに日本に帰るための飛行機に乗るためだった。だから、シティに知人などほとんどいない。(ましてや、夫はスペイン語はほとんど話せない)
しかし、そこまで事情を説明したにもかかわらず、電話はあっさり切られてしまったという。
結局、夫婦は泣きながら、病院の入口に立って献血を募った。見ず知らずのメキシコ人数人がこころよく応じてくれ、事情を聞いたそのうちの一人が、メキシコ滞在を延長せざるを得なくなった夫婦に、当座の住居まで提供してくれたという。
おかげで赤ん坊は助かり、いまはすっかり大きくなった。
しかし、忘れてはいけない。日本大使館というのはそういうところである。国会議員や皇族関係者が来たときに大騒ぎして、至れり尽くせりの接待をするためにあるところと思っておく方が賢明だ。
明らかに誰が見ても売春婦であるような女性をあちこちに同伴して、現地で笑いものになっていた領事だっていたし、(そのことをやんわりと指摘された別の大使館員が、「あの人は優秀な方ですから、英雄色を好むのは仕方ありません」とまじめな顔で答えたことも、追加しておくべきだろうね。売春婦とつきあう外交官は、国家機密の漏洩に繋がりかねないのだから、まともな国なら、それだけで罷免ものなのだけど)
こういう大使館を外交の手先に使い、世界各地に散らばる古顔の海外在住日本人は、新参者や日本の日本人をカモにする。
そうでなければ、日本の企業社会の順列や地位の上下関係を海外に持ち出して、閉鎖的な社会を作っている。
もちろん、例外的な人もまたたくさんいることは否定しないけれど、(友達としてつきあっている海外在住日本人も何人もいるし、『MARI』に出てくる「ヒライさん」みたいな人だってもちろんいる)、しかし、一般論としていうならば、日本人同士が助け合い護りあう代わりに、まるで、無視し足を引っ張り合っているようなのだ。
そしてそのわりに、驚くほど自らの日本文化を知らない。
中国で下品な踊りを踊って問題になった留学生の文化程度がそうだったように、まさにそれが日本の文化程度なのだ。
で、話は戻る。ちょっとでも実情を知っていれば、これで、中国人や韓国人の進出に対抗できると誰が本気で思えるのだろう。
仮想敵国を作って盛り上がったり、富国強兵の時代に植え付けられた選民思想や、なんの根拠もない大陸の人々への優越意識、自分に都合のいいことだけを信じ、都合の悪いことは無視するという論法で、韓国や中国を蔑視する人たちが、いまでも日本に多いのは事実で、そういう人物をまた政治家として選ばれてしまうのが、日本という国だが、その是非を論じるのはここではやめよう。
そういう問題ではなく、国際社会の荒波の中で、自らの文化を愛することすらしないで、互いに足を引っ張り合う民族と、自国の文化を愛し、互いに助け合う民族、そのどちらが生き残れるのか。
「笑えなくなる時代」は、もうそこまで来ているかもしれないことに、気づかないふりをしていられるのは、あと、どれぐらいなのだろうか。
そして、滑稽なことに、保守的で右翼的な発言をする人ほど、メキシコに半分住んで、スペイン語で歌う「外国かぶれ」の八木啓代などより、はるかに、日本文化(といっても、「開き直った幼児化文化」の方ではなく、伝統的な音楽や美術や建築などについてだ)についてのろくな知識を持っていないし、同胞を大事にさえしないというのが、日本の本当の情けなさだったりするのだ。
(11月16日 記)
色を塗る話題、さらに。
しばらく前に、日本で、メキシコの建築家ルイス・バラガンが話題になったが、彼の作品に限らず、メキシコ人は色彩感覚が豊かだ。
で、家も、日本と違って、壁をペンキで好きな色にすぐ塗り替えちゃったりするのだが、どうも、わたしのメキシコの家も、いま、お色直しされているらしい。
じつは、わたしのコヨアカンの家は、目下、メキシコに数年契約で引っ越してきているフォルクローレ・バンド『イリャプ』のリーダー夫妻が仮住まいしているのだが、あの毎日のリハーサルで練り上げる超綿密なコーラスの編曲でもわかるように、超几帳面な彼らの趣味が、「住宅リフォーム」だったりするのだ。要するに、ボロい家を買って、自分で塗り直して綺麗にしてしまうのである。
しかも、彼らは、メキシコに亡命していたときにも、転んでもタダでは起きず、きっちりメキシコの民俗音楽も勉強して、サウンドに取り入れていたぐらいである。彼らの趣味である「住宅リフォーム」にも、メキシコ的アートセンスを取り入れてしまったのである。
だもんで、彼らの本拠地であるチリのサンティアゴでも、フリーダ・カーロの家もかくやといわんばかりに、お屋敷を見事なブルーに塗ってしまっている(これは、メキシコだとそうでもないが、サンティアゴだと異常に目立つ建物となっている)。
で、エージェントとの契約で、一時的にメキシコに越してきた彼らは、正式に引っ越し先のアパートもしくは家を見つけるまでということで、わたしのコヨアカンの留守宅にいるわけだが、まず、頼んだわけでもないのに、大掃除をしてくれたらしい。(ちと恥ずかし)
で、次に、壁を白く塗り、窓枠を青く(?)塗り直したらしい。(なんでも塗り直しの必要のある壁を見ると、イライラするのだそうだ)
色あせかけていた玄関扉も塗り直して、民芸風のきれいな陶器のプレートをはめ込んだらしい。
で、次は、バスルームだと、メールには書いてある。
いうまでもなく、彼らは、大スターだったりする。こないだも国立オーディトリアムで1万人も集めて、コンサートやったところなんである。それにしちゃあ、実益性の高い趣味だなあ。
でも、なんか私って、友達に恵まれて、すごいトクしてないか?
と思うが、メキシカンアートに凝りすぎて、ひょっとしてトイレの壁に骸骨の絵とか書いてあったら、ちょっとイヤかも。
さて、ここのところ、お菓子を頻繁に作っていると(書き仕事の合間の気分転換にちょうどいいのだ。おやつにもなるし)、さすがにちょっと飽きてくる。で、近所の人にあげたりしていたら、商店街のひとに「これは売り物になる。真面目に作って売らないか」というオファーを受けてしまった。
一瞬、それは趣味を実益を兼ねてるかも、と思ってしまったが、よく考えたら、家庭用の天板一枚しか入らないオーブンで数十個とか焼こうと思うと、すごい時間と手間がかかるのよね。主婦のアルバイトというならともかく、わたしには向かないよな。
と思いつつ、今日作った、抹茶小豆マフィン。上品な味でございました。
(しまいに太るぞ)
さて、秋になってきたので、化粧話題。
食品添加物を気にしてはいても、口紅のついた口でモノを食べてたらなあ、と自分では思うのだけれど、化粧にはそれなりの効用があるのは確かです。なんでも、ボケたおばあさんでも、お化粧をしてあげると反応する。それを繰り返していると、ボケのすすみが遅れるらしい。
かくも「見られている」ことを意識することは、社会的生物としての人間にとって重要なことであるらしい。
逆に、学生時代「かわいこちゃん」で男の子にも人気のあったような友達が、結婚して専業主婦になって、子供ができて、毎日、幼児だけを相手に、家でトレーナー上下で過ごすようになっちゃっうと、いきなりオバサンくさくなっちゃって、たまの同窓会で出会ったとき、愕然とするってことありませんか?
となると、最近、路上でも、「見られていること」を意識しないで、べたっと座っている若い子たちは、25歳ぐらいを過ぎると、一気にオバハン化するのではないかしら.....いや、オバハン化ならまだ良いけれど、ゴリラ化はイヤだなあ。
と、いう話題はさておいて。化粧の話です。
以前、ある美人の知り合いに、「若い頃(そのころはわたしも若かった)に、いい加減なコトしていると、あとで泣くわよ」といわれたことがあって、そのときは、「ふうん、そうかい」としか思っていなかったけれど、そのしばらくあと、その方が、わたしが判然と考えていたよりも、一回り以上年齢が上だったと知って、驚いたことがありました。
やはり手入れはバカにできない。
で、中南米歩き回って、手入れなど考えてもいなかったわたしも、それ以後、かなり心を入れ替えたのでした。
ボロは着てても心は錦という考え方はあるし、ほんものの美人はどんな恰好でも美しいのかもしれないけれど、やはり、ちょっとした心がけと工夫で、若さと美しさが保てればいいですものね。
ただ、面倒な手入れは、けっきょく長続きしないし、高額な手入れもお金が続かない(爆)ので、わたしがやっているのは簡単なことばかりです。
まず、自分の肌にあった化粧品を決めること。
基礎化粧品って、どれも同じような感じがして、つい惰性とか瓶やパッケージのデザインなどで選んでしまいますが、かなり違います。最近は、けっこうサンプルなどがもらえるので、試してみるのがいいみたい。わたしは、基礎化粧品は、無香料のシンプルなものを使っています。
日焼けどめは、大台を越えてからは、必需品(爆)。シミやソバカスや日焼けあとがすぐにとれないんだもん。今年の2月のメキシコで、たまたまティオティワカン遺跡に行ったときにうっかりしていたら、たった半日で鼻の頭が赤くなってしまって、日本に帰ってから、半年苦労しましたがな(大爆)。いまは、医薬部外品のを使っています。
で、(ここからが本題)。
お化粧を、わたしがわりと短時間で決めている方法です。もちろん、体質や皮膚の状態の個人差は大きいので、参考になりそうなところだけ参考にしてくださいね。
まず、夏場は、汗をかいて崩れやすいので、わたしは、日焼け止め効果のある固形ファンデーションを使います。朝に塗った日焼け止めが汗で落ちてきても、外出時に、鼻の頭を固形ファンデーションでおさえることもできるしね。皮膚の色より、少しだけ濃い色(つまり冬のファンデーションより少しだけ濃い色)を使うのが、夏場は自然でいいようです。
シミとかソバカスにはコンシーラーを塗りますが、肌に直接つけるのではなく、化粧用のゴムスポンジ(コンパクトについてくるやつではなくて、できれば別売りの四角いのを買いましょう。安いものだから)にコンシーラーを塗って、押し叩くようにつけるのがコツです。自然について、浮きません。
日焼けで赤くなってしまった鼻の頭(笑)をごまかすには、ファンデーションを塗る前に、下地ファンデを塗るしかないのですが、これは肌の元の色によって黄色かグリーンか青。人によって(というか、もとの肌の色合いによって)違うようです。わたしは最初、黄色を勧められて試してみたら、ハズレ。けっきょく、ブルーが落ち着きました。
そして、冬になると、リキッド・ファンデーションです。これがむらなく、自然に仕上がります。化粧用スポンジに出して、軽く叩くように要所要所につけてからかるく広げます。そして、パウダーをはたきます。乾性肌の人でもしっとりとした感じになります。
簡単で重要なのは、アイライナーとリップライナー。輪郭がはっきりしているだけで、顔が生き生きします。舞台用やパーティー用には、リキッドのアイライナーをくっきり使いますが、普段はペンシル型のアイライナーを軽く入れます。普段用のわたしの好みは、目の上は黒、目の下は白のアイライナー。薄化粧で、目が生き生きします。
そして、リップライナー。できれば、赤系とブラウン系を2色そろえます。大した技術がなくても、簡単に唇の形を整えられ、化粧崩れを防ぐ効果も高いのです。
で、あとは口紅で塗りつぶすだけですが、ここで、あると超便利なのが、「白」の口紅。そう、一時、ヤマンバルックの女子高校生が必須にしていた「妙な」アイテムです。
なにに使うのかと言いますと、「混ぜる」のです。
ほら、かならずあるでしょう。もらいものの好みに合わない口紅とか、そのときはほしくて自分で買ったのだけど、実際に使ってみると似合わないなと思った口紅。
こういった口紅をふつうに塗ってみたあと、上から、白の口紅を紅筆で重ねます。
あら不思議。色がすごく穏やかになります。しかも、いま流行のグロス系口紅のようなつやが出ます。しかも、グロスほど脂っこい感じになりません。(あれ、下手に使うと、天ぷら食べたてみたいになるのよね)
これ、とくに夏場は、お薦めのテクニックです。暑苦しい色の口紅も、つややかで涼しげな感じになります。もらったのはいいが、これ、サルサ歌手でもあるまいし(笑)、日本でどうやって使えって言うんじゃ、というような、真っ赤とかショッキングピンクの口紅(親戚のオジサンとかが海外旅行のお土産でくれたりするんだ)が、見事に生き返ります。
唇全体に塗るのではなく、唇の中央部分だけに白を乗せると、ふっくらした立体感を出すこともできます。騙されたと思って、やってみてください。
好みはありますが、グレー系とか黒系の服を着るときに、このやり方で作ったピンクまたは赤+白の口紅という組み合わせは、秋口から冬にかけて、とても上品でオシャレです。
もちろん、口紅は、どの色でも混ぜたり重ねることはできるので、いろいろ、着る服などに合わせて、試してみてください。
わたしは、自分に似合う色はこの色、とは決めずに、服によって、ワイン系の服の時はワイン系の化粧。オレンジ系の場合はオレンジ系、というふうに合わせています。
限りなくナチュラルにしたいときも、目尻だけでもアイライナーを入れ、唇の色に近いベージュ系ピンクのリップライナーで唇の輪郭をしっかりとって、薄い色のマットな口紅かリップクリームを塗っておくだけで、きりっとした感じになります。とくに30代後半になると、そのあたりで手を抜くと、人によっては、ほんとにおばさんくさくなるので、ご注意。
アイシャドーは好みです。が、やるなら、化粧品添付のチップを使わないで、細めでやわらかめの化粧筆で、まぶたにぼかすと、自然且つ上品に仕上がります。最近老けてきたような気のする人は、その上で、目尻に、すこしつり目気味にチップで少しいれると、顔だちがくっきりします。
写真などを撮られるのがわかっているときは、かるくノーズシャドウを入れても良いですね。これも、チップで絶対やらないように(チンドン屋になります)。やわらかい筆でかるく入れます。
薄いベージュか白のパウダーやシャドウなどをお持ちなら、額と鼻のTゾーンに、軽くハイライトを、これも柔らかい筆でさっといれると、すごく立体感のある顔になります。
それから、睫毛の薄い人は、マスカラ。これの裏技は、マスカラが固まってきてダマになってきたら、化粧水を一滴入れることです。で、しばらく置いておくと、あら不思議。マスカラがさらさらになってつけやすくなります。しかも、寿命もかなり延びます。
さあ。これでお気づきでしょう、男性陣。
世の男性がよく勘違いしていることなのですが、「一見、あまりお化粧していないみたいな女性」ほど、じつは丁重に化粧しているなんてのは、よくあるのです。
さて、ここで、男性女性コドモ共通の、裏技もひとつ。
頭とか身体をばきんとぶつけて、青痣ができることがありますよね。これ、服で隠れて見えない場所ならいいですが、そうでないと、格好悪い。コブなんかできちゃうと最悪。
こういうとき、なるべくはやく、卵の白身を塗ります。コブを防ぎ、青痣もかなり防げます。コドモのいるご家庭には必須の知識です。
卵の白身がその場で簡単に手に入らないときは、砂糖水をコットンに染みこませてあてます。腫れが引きます。この砂糖水パックは、寝不足などで瞼が腫れたときの応急処置にもなります。
それ、キューバ人の知恵でしょ....なんて思っているあなた、ほんとだってば。
日本人サル化の話をしていたら、昨日、反省ザルの次郎くんが亡くなったそうで。 ううむ。サルの次郎くんの方が、大半の日本人より「まっとう」な気がしてきました。少なくとも、たとえポーズだけでも、反省することを知っているという点で。
中国で、反日デモ。
こんどは、馬鹿な留学生が、文化祭で卑猥な踊りを踊ったことが発端だそうだ。
で、「たしかに下品だが、日本なら大学のコンパや学祭でやっているようなことで、中国は、感覚が日本と違うので問題になった」という解釈が主流なようだ。
たしか、少し前の、売春パーティー問題での反日デモの時も、「日本の法律では(買った方は)違法ではない」とか「売春も相手の国にお金を落としているから、ODA」などと抜かした、救いがたい大馬鹿なやつ(残念なことに、この人物は、わたしの高校の後輩らしい)がいたが、そういう問題ではないということさえわからないというのが、バカというより、情けない。
おまえら、法律的にやっていいかとかそういう問題ではなく、「人間として、恥ずかしい」とは思わないのか。
と、書いていたら、11月3日、文化の日。
この日、なにか、「文化的な」番組を見た人いますか?
そうです。一番の目玉番組が、「IQテスト」。
これがまた、空前の視聴率だったらしい。
で、気がついた。
要するに、いまの日本人にとっては、文化というのは、伝統的な能や狂言や歌舞伎や邦楽や茶の湯や華道ではなく、もちろん、シェイクスピアでも夏目漱石でもなければ、クラシックでもジャズでもなく、タルコフスキーでも黒沢でもなく、バラエティー番組とIQテストが「文化の日」にふさわしいものなのである。
中でなにを行うか、中に何を入れるかではなく、ただ維持費だけでも莫大にかかるような巨大な箱を作って、けっきょく、カラオケ大会や「ジブリ展」をやっているのが、国民が選んだ選挙によって地位を得た政治家たちの「文化政策」なのである。
「何でも鑑定団」の大ブレイク以来、一部の出演鑑定家の、注意深いコメントはあるにしても、実際には絵画やアンティークの「値うち」が、何万円という値段でだけ評価されるようになり、さらには、いま再現することは不可能な江戸時代の職人の名人芸的な細工物よりも、レアもののプラスチックの玩具の方が、「熱狂的なコレクターが多いから」という市場原理のゆえに、「はるかに値段が高い=価値がある」という現実が、日本人につきつけられ、また、それに対して、それをなんの疑問もなく受けいれているのと、結局は同じコトなのではないのか、と。
そう。世界にひとつしかない職人芸的な工芸やアート作品よりも、型入れで作られて安っぽく耐久性も低いゆえに大半は捨てられ、その結果、残存数が少ない=レアなプラスチックの玩具の方を、本気で欲しがる=高い価値と見なす人の方が、いまの日本には圧倒的に多いということだ。
いま一番「売れている」現代美術アーティスト村上隆のもっとも代表的な作品は、アニメのフィギュアで、それを彼自身「日本人の恥ずかしい幼児化を象徴したものとしての作品」と語っている。
わたしは村上隆の作品を必ずしも支持しないが、彼の現代美術家としての感性は凄いという点については、全面的に認める。たしかに、これは(かなしいほどに)おそろしく的を得た発言であり、表現だ。
で、話は戻る。
もしも、同じことをフランス人やアメリカ人やメキシコ人がやったとしても、やはり中国で抗議行動は起こるだろうが、それ以上に、その留学生の出身国で「国の恥」だとして、彼らに対しての、大きな批判がわき起こることだろう。
しかし、日本でそういう批判があまり起こらないのは、たんに、話の論点を常にすり替える、アジア蔑視思想の強い人間が幅を利かせているというだけではないのかもしれない。
外国で、自分の国の文化を紹介してみろ、といわれたときに考えつくことが、ブラジャーや紙コップで下品な踊りを踊るという知性の退化と幼児性こそが、まさに、いまの日本の「恥ずかしい」若者文化の象徴なのかもしれない、と、気がついたのだ。
最近の日本人はサル化しているとおっしゃったのは、京都大霊長類研究室の先生だった。
なんでも、いま会っていたばかりなのに、姿が見えなくなると、ケータイで電話する。メールする。その内容も、伝えたい中身があるわけではなく、ただ、合図として声を出しているだけのようなもの。それが、サルの群のコミュニケーションと似ているのだそうだ。
たしかに、もはやこれは、幼児化を通り越して、サル化といえるかもしれない。
その結果、文化の日に気にすることが、IQということだとしたら、皮肉な話だとおもわざるをえない。いや、もっとも、的を得ているというべきだろうか。
すでにBBSで話題になっていますが、いま、扉絵が『死者の日』バージョンになっています。
米国のハロウィーンは、ケルトの祭りに起源があるとされているキリスト教の祭りで、ここ数年、日本でも、カボチャのかぶり物が知られるようになってきていますが、メキシコの死者の日は、明らかにマヤやアステカの祭りに起源があるものとなっています。
死はけっして恐ろしいものでも呪わしいものではなく、生の延長。というより、より良き別の世界へのいざない。
生け贄はおそろしいものではなく、太陽に捧げる血の儀式を繰り返す彼らを見て、スペイン人は邪教と判断したのだけれど、そこには、たしかに根本的に違う価値観が存在していたのは確か。
だからこそ、その古代の神々を封じるために、スペイン人たちは、古代の神々の神殿を破壊し、その土台に、その石をもってキリスト教の教会を建てた。
それが、かつては古代アステカの宗教都市であったメキシコシティに、異常にまで教会が多い理由なのだけれど、この10月後半から11月はじめの「死者の日」は、まるで、古代の神々と古代の価値観が、封じられた石のその下から蘇ってくるような空気がメキシコには漂うのである。
10年前には、死者の日の教会には、キンセンカの花が飾られ、薔薇の花びらが撒かれ、松脂の香が焚かれ、おびただしい蝋燭が並べられた間には、髑髏が飾られていたものだった。
(これのどこがキリスト教やねん)
さすがに、最近は教会ではやらないみたいだけど、墓地はもちろん、中央広場や街の小広場、公園、それに公共や半公共のスペースには、オフレンダと呼ばれる死者の日の飾りつけが、いまでも行われる。
オレンジ色のキンセンカと紫色の乾燥花。お香。ひらひらした色とりどりの切り絵(パペル・ピカード)は、中国の切り絵がメキシコ化したもの。そして、髑髏のお人形やお菓子。たくさんの蝋燭。パン・デ・ムエルト(死者のパン)と呼ばれる砂糖をまぶしたさくさくの菓子パン。
私の住むコヨアカンの広場などでは、ポソーレ(豆のシチュー)やタマル(トウモロコシ粉のチマキ)の屋台も建ち並び、この期間は、すっかりお祭り気分満載になれるのだ。チョコレート(ココア豆を石臼ですりつぶしてスパイスを利かせたメキシコ風で、ものすごく香り高い)やアトーレ(アーモンドの熱い飲み物)などのメキシコの伝統的な飲み物も売っている。
カトリーナという立派な名前まである、羽根帽子で着飾ったエレガントな骸骨の貴婦人の扮装をした人たちも、街角に現れる。いまの扉絵の絵は、そのカトリーナの肖像で、メキシコ近代絵画の父とされる銅版画家ホセ・グァダルーペ・ポサーダの作品だ。
もちろん、日本ではなんの馴染みもないのだけれど、ちょっとだけメキシコの雰囲気を味わってみてください。
ハリウッドのステロタイプな「砂漠、サボテン、陽気」なメキシコではなく、むしろ、メキシコ人の本質に近い、そして、フリーダ・カーロやディエゴ・リベラが愛した、「ゴシック・ホラー的」魅力に満ちたメキシコを。
えー、あまりにも、ぼろくそに書きましたね。フリーダ。
ただ、わたしはべつにサルマ・ハエックが嫌いというわけではありません。ミスキャストであるという点と、彼女にプロデューサーとしてのセンスがない(監督イエスマン過ぎ)というだけで。
ひとつ彼女のよい点として評価したいのは、あれだけセックスシーンがあるにもかかわらず、ポルノ映画になっていないということ。なんというか、ハエックの出るベッドシーンはどれもいやらしくなくて、スポーツみたいな健全さなんである。そして、かわいいのは事実である。前にも書いたけど、ボディラインは完璧だし。
で、そこが、じつに『フリーダ』っぽくないんだよね。生涯を肉体的苦痛で満たされた中で生きた人なんだもん。いかにもエクセサイズの女王って感じの健康的なフリーダって自己矛盾しているじゃん。
もちろん、健康的イメージで売っていたトム・クルーズが、吸血鬼を演じて、大方の予想を裏切って成功した『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』の例もあるけれど、このときのトム・クルーズの役者根性は半端なものではなかったのだ。
だから、彼女は、アクション映画とかに進出したら、良い面が出るのではないか。陰のある複雑な人格は、いくらなんでもね。
もちろん、監督の問題も大きい。
プロデューサーであるハエックがどうしても主役でなくてはならないなら、もっとメキシコ文化の呪術性をクローズアップして、ゴシックロマン的美しさを感じさせる演出にしていたら、ハエックの美しさを別の意味で際立たせ、ストーリーにも必然性と説得力を持たせることができたかもしれないのだ。
なにより、最も重要な登場人物2人が画家なのだ。絵が重要なモチーフとして出てくる。それだけに、カメラワークに細心の注意を払え、構図の美しい、要するに絵画的センスの高い監督でないと話にならない。
そこのとこ、かつてのポール・ルデュックはうまかったね。息を飲むほど美しいシーンの連続で。カメラワークから実在の絵画作品にうつる演出なんかに、ぜんぜんとってつけたような無理がない。ただ、彼が作ると、芸術を追求しすぎて難解になってしまうので、ハリウッドには向かないのは確か。
わたしだったら、監督はポランスキーといきたい。せめてグレゴリー・ナビ。
そして、重要な脇役であるディエゴ・リベラとトロツキーにこそ、あまたの女達が、フリーダ自身もが心を迷わせるような、「魅力的で個性的な」俳優をもってくる必要もある。
リベラは、オリバー・プラット。(ルベン・ブラデスを太らせるという超裏技もある。ルベンならやるかもしれない)
トロツキーは、個人的趣味でブライアン・コックス。
せっかく、シケイロスにアントニオ・バンデラスを使うなら、彼の出番ももうちょっと掘り下げたらいいよね。シケイロスくんも、トロツキー暗殺を試みて、失敗・逃亡してるぐらい濃いキャラクターなんだからさ。
音楽は、グスターボ・ロペス。ベラクルス音楽でもマリアッチでもなく、土俗的な香りが濃厚でありつつ、メロディが美しいオアハカの音楽(ソン・イストメーニョ)の『ラ・サンドゥンガ』などをモチーフにしたものがいいだろうね。
これで、主演がジェニファー・ロペスだったら、ハリウッド製といっても、かなりいい映画になったと思うぞ。
ここのBBSでもちょっと話題になっていた映画『フリーダ』見てきました。
メキシコの我が家の隣人、といっては失礼。近年世界的にブレイクしているメキシコの女流画家フリ−ダ・カーロを描いた伝記物で、ハリウッド制作。メキシコでは、ほとんどあらゆる新聞で、「今年のワースト映画」と叩きまくられた作品です。
まあ、もともとメキシコは反米感情の強いところで、メキシコ人の愛してやまないフリーダが、ハリウッド娯楽映画というので、反感を買ったかな、と思っていたのですが、見てよくわかりました。
「すべての」新聞が叩いたわけ。
えー、わたしは、たぶん多くの方が思っているほど反米的ではないので、(アメリカ政府のいくつもの政策については明快に反対し、口を極めて非難しますが、アメリカ文化自体を嫌いというわけではないし、ジャズは好きだし)、べつに映画が、スペイン語じゃなくて英語なのが違和感があるなどとはまったく思いませんでした。
このテーマでは、20年前に、フランス・メキシコ合作映画として作られたポール・ルデュック監督、オフェリア・メディーナ主演の名作『フリーダ』もあるのですが、ハリウッド作品を、あの芸術的香気の高い(けれど、なかなかに難解でもある)と作品と比べてどうこう言いたいとも思わなかったし。
にもかかわらず、「メキシコすべての」新聞が叩いたわけが、わかったというのは、なんぼなんでも、中身がひどすぎるということ。
脚本が最低。演出が下品。出演者が大根。......という、ものの見事に3拍子揃った映画なのでありました。
なんといっても、主役サルマ・ハエックの下膨れ系の顔が、どうひいきめに見たって、オリジナルのフリーダ・カーロにぜんぜん似ていないというのはさておいても、彼女演じるフリーダは、苦難の画家というよりは風俗嬢にしか見えない。
なにかというとおっぱいを丸出しにして、腰をくねらせて男を誘惑しているか、そうでなければ、ヒステリックにぎゃあぎゃあ泣きわめいているだけなんである。
そういう意味では、フリーダ役のサルマ・ハエックのプロポーションは抜群である。とくにバストがすっごく大きくて形もきれい。エステサロンか美容外科の宣伝広告みたい。でも、用がなくても脱ぎたくってしょうがないというのはちょっと違うんじゃあ.....。
で、メキシコの誇る国民的画家ディエゴ・リベラは、露出癖のある風俗嬢と結婚するような男にふさわしく、いかにも知能指数が低そうな、ミーハーで気の弱いデブのオッサンであり、世紀の思想家トロツキーまでも、ただのエロ爺なのである。
で、その彼らが、知性や教養の片鱗もなく、ほとんど15分おきに誰それ見境なしにセックスしているという、それはもうすごいストーリーなのだ。
しかも、ハエック演じる風俗嬢フリーダが、NHKの朝ドラのような演出上の意図も見えないまま、酒場でわけもなく歌い出す(ちなみにハエックは、がらがら声で音痴だった)のはともかく、足が悪いという根本的な設定を無視して、突然、意味もなく下手なダンスを踊りだしたり、あげくに元気にピラミッドに登ったりする論理を無視した展開は、まさか、八木の愛するB級お笑い映画『デスペラード』のパロディのつもり?
しかも、そこに、チープなCGまでついてくるという完璧なおバカさである。
そして音楽。メキシコといえば、マリアッチ。
......まんまである。(爆)
それに、最近ヨーロッパとアメリカの一部でブレイクしている、老チャベーラ・バルガスをなんの脈絡もなく登場させて、彼女の18番ヒット曲の『ラ・ジョローナ』を歌わせれば、話題性プラス1。
合間には、アメリカ・メキシコ混血で、まさにフリーダ・ブームに乗って、フリーダそっくりの派手な民族衣装を着たエキゾチシズムで、アメリカで売り出し中の新人歌手リラ・ダウンズ。
この映画に出て、うまくすれば大ブレイクするかも、というマネージメントの思惑見え見えだったが、サルマ・ハエックがフリーダ役なのだから、リラ・ダウンズ本人がフリーダ衣装を着て出演できるわけもない。そうなると、歌よりエキゾチックなビジュアルで売っている彼女は、衣装なしだと必死で熱唱しているわりには地味。というか、こんなに下手だったのか。
そら、メキシコ人、怒るわな。
わたしの場合は、怒るというより、あほくさくて脱力。というか、苦笑。
わたしはじつはバカ映画はバカ映画でけっこう好きなのだけど、これはバカ映画としてもはき違えているよな。
フリーダは、恋愛遍歴華やかな女性であったのは事実である。その夫、リベラもかなりの女性好きであったことは知られている。
しかしながら、脚本家にも監督にも、なにより、主演でプロデューサーのサルマ・ハエック自身に、彼らはただの馬鹿な色情狂カップルでなかったからこそ、歴史に残ったのだという根本的な理解が欠如しているのだ。
恋愛は枝葉末節に過ぎない。
彼らは本質的に、「描かずに入られない」アーティストで、身を抉るような作品を残し、同時に、あの時代の筋金入りの共産主義者として、ためらいなく理想を信じる生き方をした。だからこそ、あの二人は対等のカップルであり得たのだ。
その凄さが、彼らの絵が好きか嫌いか、とか、彼らの思想に共感するかどうか、というものを超えた強烈なキャラクターとしてのカリスマ性を生んだのだし、あの時代のメキシコの絵画運動が燃え上がるようなパワーを見せたのではなかったか。
その並はずれたパワーの一部分としての恋愛遍歴も嫉妬もそれなりにすごいが、フリーダがきゃぴきゃぴで可愛くて腰をくねらせて媚を売るから、変態親父のトロツキーがへらへらと鼻の下を伸ばすのではない。
そのあたり、さすがにポール・ルデュックの描き方、大女優オフェリア・メディーナの演じ方は、素晴らしかった。
ヨーロッパ的美人観では美しいとはいいがたいフリーダであるにもかかわらず、彼女の知性と内面的な魅力、そしてなにより、彼女の周囲に漂う、ゴシックロマン的とさえいえるメキシコの土俗的・呪術的な雰囲気が、魔術的な官能性を醸しだし、きわめて理知的な、というか、ヨーロッパ的知性の体現者であるトロツキーのヨーロッパ的倫理観をもぐらつかせるのだ。
でも、この作品では、フリーダに対しても、メキシコに対しても、なんの愛情も知識もなく、ただ、ここ数年、世界的にフリーダ・カーロがブームだから、このネタで映画を作れば当たるだろう、という製作者サイドの彼らの軽薄さがそのまま出ている映画なのだから、メキシコ人の総すかんを食らうのも仕方がない。
ちなみに、映画を作るうえでのエピソードとして感動的に語られている「ティオティワカン遺跡での撮影を、サルマ・ハエック自身が、大統領と交渉して....」というのも、メキシコ人には通用しない出鱈目であることは、一言。
そもそも、とってつけたような観光名所遺跡のシーンなんて、映画の中ではなんの必然性もないというのは置いといても、ティオティワカン遺跡は、月曜日が定休だから、月曜日の撮影許可を取って撮影使用料を払えば、NHKでも、フジテレビでも撮影できるのである。
で、サルマ・ハエックのパパは、富豪の極右系政党の代議士で、現大統領とも親しいお友達であるという、ただ、それだけの自慢話に過ぎない。
おっと、こういうことは内緒にしておいて、わたしがコーディネーターを頼まれたときに、「大統領と交渉して、そりゃもうたいへんでした.....」と恩を着せた方がいいのかな.....?
このモノローグを見て、わたしが栗の皮むき器を買ったと知ったさる方から、なんと、丹波篠山の栗と、黒豆の枝豆をたくさん送っていただきました。
さっそく、皮むき器『栗くり坊主II』で、一気に剥いて、栗ご飯。残りはアクを抜いてから小袋に分けて冷凍しておきます。
枝豆はゆでる。
これは、この間、教えてもらった超簡単な方法がありまして、さっそく実践です。
レンジが使える耐熱性の容器(わたしは旭化成のジップロックコンテナーを使用)に水で洗った枝豆に適量の塩を軽くまぶして入れ、蓋をずらせて、電子レンジで100gあたり2分です。つまり、300gで6分。
ほんまにこんなんでいいんかい、と思うぐらい楽ちんで、しかも、荒熱がとれたらそのままフタをしておけばいいので、鍋やザルを洗う必要もない。
栗剥きと枝豆ゆでがあまりにもあっけなくできてしまったので、勢いあまって、アップルパイまで焼いてしまいましたぜ。
林檎はたまたま、昨日見つけて6個300円の紅玉を3個。薄切りにして、鍋にバターひとかけとグラニュー糖50g、レモン汁少々、白ワイン少々を入れて火にかけます。林檎の水分が出てくるので、しばらく煮詰めて、汁気がなくなったら、シナモンとカルダモン、ほんとはカルヴァドスがあればいいのだけど、ないのでラム酒(ブランデーでもいいと思う)を少々加えます。
シナモンとカルダモンはなくてもいいけど、あればあったで、家庭で簡単にチャイ(インド風ミルクティ)が作れるので便利ですよ。
チャイは、ごく少量の水を鍋で湧かして、紅茶(景品でもらうような安いやつで充分)を入れてちょっと煮出し、それから牛乳、シナモンとカルダモンを加えて、葉が開いたら茶こしで濾します。
生姜とかクローブをちょっと入れるともっと本格的です。クローブは、風邪を引いたときにも使います。
それと、シナモンは、豚肉料理(ローストポークから焼きそばまで)を作るときにひとふりすると、おいしくなります。
たくさん使うものではないかもしれないけれど、あると便利です。
で、話戻って、林檎の甘煮。
このまま食べてもじつはおいしいのだけど、このあいだ、処分品300円の捨て値で売りに出されていた18cmのパイ型に、冷凍のパイ生地(これも冷凍食品4割引とかのときに買っておくのよ)2枚を引き延ばして、林檎を詰め、もう一枚をリボンに切って上に乗せて、オーブン200度で30分。極上のアップルパイです。
自分で言うのもなんだが、そのへんのケーキ屋には勝っているぞ。
で、今夜は、写真家の岡部氏に、現代美術作家・平原辰夫氏をお招きして、宴会。枝豆に築地直送のまぐろのお刺身、鹿肉の叩きなどをつまみに、チリから持って帰ってきたマルベックの赤ワイン。締めは栗ご飯。甘党の方はデザートにアップルパイ。とても幸せ。
ええ、先日の、NHK-BS2の『人生よ、ありがとう』いかがでしたか。
このモノローグにも、BBSでも、あまりわたし自身が盛り上げないので、ひょっとしてなにかトラブルでもあったのでは、と深読みされた方もじつはおられましたが、そういうことはありません。
たんに、わたしの性格の問題であります。
時間をかけて苦労したものほど、できあがった直後というのは、だいたい冷静に評価できないのが普通なのであります。
というか、最初のうちは、「あそこで、ああしとけばよかった」的なアラしか目につかないというのが本当ですね。
たとえばレコーディング作品だと、最後のマスタリングまでつき合って、自分でOKを出したくせに、CD盤になったのを聴いてみると、微妙な音程だとか微妙なリズムだとか、もうそういうのが気になって気になって気になって気になって、仕方がない。
それがわかっているので、しばらく放っておいて(自分では「熟成させる」という)、聴いてみて、やっと「うむ、まあ許せる範囲だ。悪くはない」と思えるわけです。
訊いてみると、アーティストにはそういう人が多いみたい。(もちろん、常に自分の作品が大好きな「俺は天才だ!」タイプの人もいるんだけどね)。
だから、きっとマネージャーという仕事が必要なのですね。
小説でも書き上がった直後はハイですが、編集者に渡して、見本刷りが校正のために帰ってくるときが辛い。全部書き直したくなるぐらい気に入らないときがあります。しかしそういうわけにもいかないので、なるべく見ないようにして最低2日、できれば1週間ぐらい置いて熟成させてから(笑)、校正にとりかかる。
まあ、そういう性格の人間なので、しばらく熟成させないとコメントをしたってしょうがないと、まあそういうわけなのであります。
で、番組の話。
日本中の大半の人にとって、あまり興味があるとはいえない南米の、それも政治問題を扱って、そのうえ、キーになるのがほとんど知られていない曲、というのは、難度でいえばかなり高いものだと思います。
しかも、その歌が、誰が聴いてもリフレインが耳につくような、いかにもわかりやすく「感動的」な曲ならともかく、これがまた、曲自体は、さらりとした、しかも、どちらかといえば単調なメロディです。
歌うビオレータも、いわゆる美声タイプではないし、ましてや美女でもない。
にもかかわらず、中南米スペイン語圏からもし一曲、代表曲を選ぶのであれば、なにが適当か。
という問いをしたら、おそらくはナショナリズムの強い中南米人のこと。メキシコ人はメキシコの曲を選び、キューバ人はキューバの曲を、アルゼンチン人はアルゼンチンの曲を主張するのは当然として、それでいながら、多くの人が納得できる選択となり得たのが、この歌、『人生よ、ありがとう』だったわけです。
それはおそらく、あの番組でもコメントされていたし、わたし自身、拙著『危険な歌』に書いたことだけれど、「もっとも個人的な歌が、もっとも普遍的となり得た」ということなのでしょう。
ただ、これを伝えるのは難しい。
しかも、政治がからむ。
そのかなり難度の高いテーマに挑んだという点、そして、それなりのものを伝えることができたという点では、文句なく、評価に値すると思います。このテーマをこの時期に放映することに拘ったプロデューサー氏とディレクター氏には、心から敬意を表したい。
しかし、問題があるとしたら、これは仕方のないことですが、時間が短いなか、情報が多かったので、「切らなくてはならない」インタビューが多かったこと。番組の時間的・内容的制約のために、やむを得なかったとはいえ、あえて切ってしまった部分に、わたし個人にとっては、興味深い部分が多かったのです。
というか、白黒わかりやすくないものを、白黒わかりやすい形に整理して報道するというのがTVのやり方。でも、白黒わかりやすくないところに、実のところ、本当に濃密で面白い人間ドラマがあるというのが、真実でもあるのです。
あと、主演のマリア・イネス・オチョアは、正直に言って、荷が重かったかなという感じです。観光気分の最初は、かわいくて無邪気なだけでも良かったんだけどね。
むしろ、(当初の危惧とは裏腹に)淡々と感情を抑えて語る山口智子さんのナレーションが印象的でした。
道具にこだわらない方が、と言ってるはじから、合羽橋道具街に行ってきました。
ちょうど60周年行事だそうで、お祭り気分。
で、前から欲しかったお菓子の焼き型やら、料理グッズをいろいろ調達。
やはり100円ショップで買ったへなへなしたものでは限界があるので(爆)
で、本日買ってきた型で焼き菓子など焼きますと、お店で売っているのと遜色ない出来になるのであります。いままでだと、味だけは美味しい我が家のおやつ。今日からは、お使いものにもできるのさ。(はっきりいって、わたしの作るお菓子のいくつかは、下手な洋菓子店で売っているものより旨いんだぞ)
あとのヒット商品は、鍋の柄に差し込むタイプの鍋つかみ。要するに、柄の部分も金属製なので、すぐに熱くなる鍋を、いままでだといちいち鍋つかみで持たなくてはならなかったのを、これからは柄に差し込んでおくだけというわけ。ただし、火には注意しなくてはいけないけどね。
それから、栗の皮むき鋏。わたしは栗ご飯が大好きなのだけど、ご存じのように、栗は皮を剥くのが一苦労。下手をすると、半日近くつぶれてしまう。もちろん、皮を剥いた栗もスーパーなどで売ってはいるのだけど、味ははっきり違うのが悲しい。
でも、これがあればもう大丈夫。今年はがんがん栗ご飯が食べられるというわけだ。(わくわく)
八百屋さんに買い物に出かけたら、近所の洋食店のシェフとばったり。
で、なんで、近所の八百屋なのかというと、じつは、シェフが仕入れているのが同じ店なんである。
そもそも、その洋食屋は、最初に入って以来、シェフの職人芸的技術の確かさに、常連となってしまった店なのだが、メインディッシュはもとより、なにげない付け合わせの野菜が、そりゃもう感動的に旨いのである。たとえば、人参のグラッセ。たとえば、じゃがいものフライ。
で、ここで、「そりゃ、うちの素材は○○村直送の有機無農薬栽培の............」と蘊蓄でもたれてもらえると、「まあ、素材からして違うのだからね」と、わたしなどは心安らかに食せるわけだが、残念なことにそうではない。なんたって、仕入先が一緒なのだ。
「最高の素材がなきゃいいものは作れない、なんてのは、才能のない料理人の逃げだね」と、体を壊して下町に引っ込むまでは、欧州を含め一流といわれる店で華やかに活躍していたこのシェフは、言いきっちまうのである。
それは極論かとも思うけれど、実際、一山100円の人参とかじゃがいもで、なぜ、こんなに差が出るのかがわからない。やはりプロ、それも、筋金入りのプロである。ちょっと料理のうまいアマチュアなど、足下にひれ伏すしかないぐらいの違いなのだ。
そして、常連の特権か、ときどき、メニューにない料理を出されることもあるのだけど、それだって、毎度、予約をしていっているわけではない。
臨機応変に、「そういや、アレがあったな」と、冷蔵庫開けて即興で作っていただけるわけである。
その点において、シェフの言葉に嘘はない。
しかし、実際問題としては、たしかに、弘法も筆は選ぶべきです。
安物の筆では、どうやったって出せない線はある。
2万円の初心者用バイオリン弾いていては、どうやったって、限界がある。
丹波篠山の松茸だの、パルマの生ハムだの、最高の素材でしか味わえない味というのはたしかに存在する。
でも、たしかに、本当に才能や技術のある人は、素材や道具を選ばないというのも事実です。
いや、選ばないというのは正確ではない。いい素材でなくても、最高の道具がなくても、それはそれで高水準のものを当たり前のように作る。新鮮な素材が手に入りにくい京都やパリや中国山西省で、乾物や複雑なソースなどの高度な料理技法が発達したように。 そんな技術者に、よい素材や道具が渡れば.......こわいものはないだろうな。
一方で、下手なやつほど、素材だの道具だのにこだわりたがるという耳の痛い指摘があるのも確か。
で、そういう人ほど、素材にこだわった挙げ句に、その素材をいじりすぎて駄目にしてしまうことが多いとも.....。
これは食材に限らず、下手なプレイヤーが演奏した楽器は、いいものであればあるだけ、デリケートにできているので、奏者の悪い癖がつくなんてことがあるようですから、おそろしい。
そういえば、90年代はじめの、超物資不足のキューバで、キューバ人たちが信じられないようなアイデアと熱意で、いろいろなことをやっていたのを思い出します。
見学に行った日本の医者が呆れかえっていた30年前の古い機器を自前で改良して、世界最先端の検査をやっていた医療機関や、ご家庭で手に入るものの配合で手製の現像液を作って現像した写真をヨーロッパの作品展に出していた写真家、日本なら田舎の中学校のブラスバンドでも使っていないようなボコボコの楽器を使って、すごい演奏をしていたプレイヤーたち。
素材がよくないと、たしかに限界はあるけれど、その限界というのは、私たちが思っているほど高いハードルではないのかもしれません。
そういえば、わたしの悪友で、チャイコフスキー・コンクールで、史上初のダブル受賞を果たしたビクトル・ロドリゲスくんというキューバ人ピアニストがいるのですが、彼は、コンクール直前、なんと突き指するというアクシデントに見舞われてしまったとか。しかし、彼は、常日頃、キューバで超おんぼろの旧ソ連製ピアノ(鍵盤がどえらく重いのだそうだ)で練習していたので、コンクール会場のハンブルグ製スタインウェイの鍵盤の軽さに感激し、突き指の痛さも疲労もまったく感じなかったそうです。
(それって、大リーグ選手養成ギプスみたいな話だな.......でも、本人から聞いた実話です)
いずれにしても、不況とはいえ豊かな日本で、最高の素材を、いじりすぎて駄目にすることはやめる努力をした方がいいみたいですね。
丹波の松茸が食べたいという気持ちがないといえば嘘になるので、もしも手に入ったら、わたしのような凡人は、さっとあぶって.....(笑)
重いネタを書いたところで、話題にするのはちょっと気が引けないでもないのだけれど、しかし書くぞ。阪神が優勝して、わたしはうれしい。
べつに熱狂的な阪神ファンというわけではないのだけど、隠れファンアイテムである、『サンカイスポーツ』や『瞬刊ポット』だって隠し持っていたりするのである。(爆)
100枚限定の『ほんまに阪神が好きやねん』テレカも、バッジだってじつは持っていたりするのである。(大爆)
それなのに、同時に野村嫌いであったわたしは、ここ数年、あえて、阪神を応援していなかったのであった。
だから、今年の星野阪神の優勝はかなりうれしい。かなりうれしいが、誰や、今世紀最後の優勝とか抜かしとんのは!
また、9・11がやってきた。
この日付で大半の人が連想する米国での同時多発テロはわずか2年前のことだったが、その後、米国はそのわずか2年間で、2つの戦争を起こし、民主化の名のもとに数万人を殺戮した。
そして、民主化されたはずのアフガンもイラクも、泥沼が続いている。
そんななかで再びやってきた9・11。
あのテロは、日本以外の国では、「カミカゼ攻撃」と呼ばれ、なぜか、日本のマスコミだけが「自爆テロ」と呼ぶのはなぜだろう。
おおかたの日本人にとって、刺激が強すぎるという配慮なのだろう。
しかし、外国で自分たちがどう思われているのかというのは、重要なことではないのかな。
あれは、まさしく「カミカゼ」なのだ。
発端はまさしく太平洋戦争の日本帝国軍であり、それを日本赤軍がパレスチナに伝えた。もともとイスラームであるアラブに、自爆=自殺美化などという発想はないのである。
それが、中東に広まった。それが、現在の日本人の意図であろうとなかろうと、その事実から目を反らすべきではない。
あれが、「カミカゼ」なのだと理解すれば、日本人には、ある程度、アラブや中東で吹き荒れるテロリストの心情が、ほんの少し理解できるはずである。
理解して、味方してやれということではない。まず、相手を理解するということが重要だということだ。あの太平洋戦争で、アメリカという国の国力も知らず、鬼畜米英というかけ声だけで、愚かな戦争に突入し、挙げ句に、カミカゼなどという美辞麗句のもとで、多くの優秀な若者を失ったという経験を繰り返さないために。
広島と長崎に原爆が落とされたとき、米国が歓喜に沸き返り、アトミックボム・ルックが流行った。なぜ、米国人は、そんなに無神経に無邪気に喜ぶことができたのだろうか。
それは、ときのトルーマン政権が、原爆の本当の被害を隠したということもあるが、それ以前に、「カミカゼ」という狂気の攻撃を行う国をやっつけたという、まさに、アフガンやイラク攻撃に見られたのと同じ盛り上がりではなかったか。
そう。60年前の日本は、そういう国だったのだ。そのことから目を逸らせて、「なかったことにする」べきではない。
韓国でのユニバーシアードで、北朝鮮の美女軍団の女性たちが、歓迎のための金正日の写真入りの垂れ幕を「失礼だ」とはずして、涙ぐんでいるのが報道された。
さも、北朝鮮が異常であるかのように。
べつに北朝鮮の肩を持つ気はないが、しかし、60年前の日本だって、御真影に同じことをされたら、同じように反応する軍国少女はいっぱいいたのではないか。なんたって、火事で御真影が焼けたというだけの理由で、自殺した学校校長の話が美談とされた時代なのだ。
「敵は同じ人間ではない」「だから話をしても無駄」という論調は、伝統的な戦争遂行論者の言いぐさである。
文化が違えば価値観が違うのは、あたりまえだ。それは異常とみるべきだろうか。
戦前の日本は、いまの日本人から見れば、明らかに「異常な」文化であり体制だった。
想像してごらん。天皇の人間宣言聞いて、泣く人がいたんだよ。論理もへったくれもない話ではないか。
しかし、それが「異常な文化」だったからといって、原爆を落とすのは正しいことだろうか?
(もちろん、あの時代の日本軍が先に原爆を開発していたら、間違いなく使っただろうけどね)
だから、問題は難しい。ヒステリックに経済制裁と騒いだら、それは太平洋戦争の時代と同じ過ちを繰り返すことになるからだ。
けれど、愚かな人ほど、安易な解決を求めたがる。
そして、愚かな人ほど、「自分は正しい」「自分は優秀である」という優越感を持ちたがる。
そういう愚かな人が、安易な解決に飛びつきやすくするために、多くの場合、マスコミが使われる。敵は悪である。敵は異常である。敵は同じ人間ではない。
マスコミの影響力が増大した、20世紀終わりから、その傾向はさらに強まっている。なんたって、TVうつりの良い政治家が当選する時代なのだ。
そのマスコミが、繰り返し、大同小異の論調で報道したらどうなるのか。
その後に続く言葉は、「だから殺すのもやむを得ない」
石原都知事がテロ容認発言をしたからといって、新聞に批判的な記事が出ている。
しかし、問題は、テロを容認するかのような発言をしたことではなくて、自分と違う意見を持つ人間は死んでもかまわない、ということをおおっぴらに発言したということだ。
つまり、彼は民主主義を本質的に否定したのである。
最後に、この9・11について、ただひとつの良いニュースを。
30年前の9・11のチリのクーデターで、ビクトル・ハラをはじめ何人もの人が殺されたチリ・スタジアムが、明日を持って、その名称を変える。
2003年9月12日から、正式名称、ビクトル・ハラ・スタジアムに。
あの事件を風化させないために、チリの人々が運動した結果である。
暑い日本でうだりつつ、近況をつれづれ。
今月(9月)22日発売の、『小説宝石』に、八木の短編小説が収録されます。いままでの八木の作品とはかなり違っているので、驚かれるかもしれません。なんと舞台は日本です。どうぞ、お楽しみに。
ところで、知人がちょっと鬱っぽい様子だったので、連絡してみました。
すでに医師に相談したというので、安心。
外国では、精神科医のカウンセリングを受けるというのは、とても一般的なことなので、悪い印象はありません。かくいう私も受けたことがあるぐらいです。
で、その中でも、鬱病というのは、なんというか、アーティストとかインテリ、いってみれば繊細で知的な人がかかる病とされているせいか、それなりのステイタスがあるようです。かっこいい病気という印象かな。(たしかに脳天気なバカはかかりそうにない)
だもんで、おまえが鬱病になるわけないだろう、と思うようなおねーちゃんが、物憂げに「私、ここしばらく鬱病っぽいので、明日、心理学者のカウンセリングを受けるの」などと自慢げに話していたりする。
あと、ずる休みの口実にもされてますね。「鬱病が出て起きられなかった」とか。嘘っぽいと思っても、鬱病って、自己申告的病ですから、同じずる休みでも風邪と違って、「ほーら、風邪なんかひいてないじゃないか」というわけにはいかない。
ただ、日本だと、精神医療に関して偏見が強いせいか、いまだに印象悪いですよね。だもんで、がまんして、あるいは、自覚症状が強いのに認めたくなくて、医者に行かない人も多い。
でも、もしあなたが、精神的なストレス(とてもいやな体験や人間関係のトラブル、あなたの肩にすべての重圧がかかっている責任の重い仕事)を感じていて、夜眠れなくて疲れやすいとか、仕事に集中できないとか、朝起きられないとか、通常の検査などで身体的に問題がないにもかかわらず、体調が悪いとかいう場合は、どうぞお気軽に、訪ねてみてくださいね、心療内科。
皆様、ライブにおいで頂きありがとうございました。
ひさびさのHAVATAMPAライブ、しかも、スペシャル・ゲストにタイロン橋本氏というのもあって、満員御礼でありました。
お帰りになった方もおられたようで、ごめんなさい。
それにしても、日本初のサルサバンド『オルケスタ・デル・ソル』創立は、1978年、なんだから驚きますよね。まさに、ニューヨークでサルサが燃え上がっていた時代。
HAVATAMPAのバンマス吉田憲司も、タイロン氏もその時代の人なのでありました。
さらに言ってしまうと、レクオーナ・キューバン・ボーイズの創立が1945年で、東京キューバン・ボーイズが1949年って、これはもう笑ってしまうぐらい凄い。日本のラテンの歴史も捨てたものではないです。
ただ、日本で「ラテン」というと、なんとなく、バカっぽいイメージがあるのはなぜ?
やっぱり、脳天気にマラカス振っているという雰囲気がぬぐえないのでしょうか。でも、マラカスをちゃんと振るのって、じつはかなり難しいんですけどね。
で、わたしも、チリから帰って、大忙しで新曲の練習。なごやかなクエカのリズムを頭から消して(せっかく踊れるようになったのにな)、ハイテンションなクラーベです。
せっかく髪を切ったので、久々に着ましたぜ、深いスリットの入ったスパンコールと金ビーズ付き、黒のドレス。金色のトパーズのネックレスとイヤリング。いや〜派手だね(笑) 気分はちょっと、『シカゴ』のキャサリン・ゼタ=ジョーンズ(嘘)。
そんなわけで、タイロン氏とのデュエットはいかがでしたでしょうか。
今後のHAVATAMPAも乞うご期待。
チリねたが続くところで、チリ独特の笑える話をひとつ。
(といっても、日本人にしか笑えないと思うのだけど)
中南米では、大半の国でスペイン語が公用語に指定されていて、地名なども、それに準じるものが一般的ではあります。
とはいえ、先住民原語が固有名詞に影響を与えているケースも少なくありません。
日本で言うなら、札幌(サッポロ)、留萌(ルモイ)、標津(シベツ)などのように、アイヌの人たちの言語に起源を持つ地名が残っているようなもの、と考えたらわかっていただきやすいと思います。
先住民文化の影響の濃いメキシコやグアテマラなどでは、Ixmiquilpan(イスミキルパン)、Tehuantepec(テワンテペック)、Queztaltenango(ケツァルテナンゴ)などといった舌を噛みそうな地名が多くて、慣れるまではまごつきますが、チリでは、これが、ほほえましい名前となるのです。
Pio Pio(ピオピオ)とか、Con Con(コンコン)、Til Til(ティルティル)。
これみんな地名です。
パトリシオ・マンスの作品で(たまにわたしも弾き語りで歌う)、『ティルティルの虜囚 (El Cautivo de TilTil)』という美しい曲があります。
19世紀のチリ独立戦争を闘ったゲリラ指導者マヌエル・ロドリゲスのことを歌った曲ですが、70年代から80年代には、反軍政の意味合いも込めて歌われた曲です。
そのパトリシオが住んでいる町が、コンコン。
狐ではなく、ペリカンのいっぱいいる、海辺の美しい町でした。
そういうのはまだ良いけど、「ピオピオ大名誉博士(ほんとにいらっしゃる)」なんていう肩書きって、どうも、いまいち知的な感じがしないと思うのは、わたしだけ?
あるレストランでは、「エクアドルえびのビルビル風」などという、これだけではなんだかわからない料理もメニューにありました。なんなんだ。
もちろん、注文してみましたら、大正海老(に似た海老)を、ガーリックと唐辛子風味のオリーブオイルで味つけしたもので、とっても、おいしかったです。
こういうのはいいですが、実際に見た広告には、こんなのがありました。
「Bio Bio セメント」(なんか、すぐ崩れそう)
「Ira Ira タクシー」(なんか、こわそう)
先日、日本人スタッフのワーカホリックぶりを皮肉った八木でしたが、じつは自分もあまり人のことが言えないのであります。(爆)
それというのも、チリ人というのは、ラテンの中の日本人はたまたドイツ人と言いたいほど、真面目で几帳面な人が多いのです。
チリの食べ物といえば、やっぱり、海産でしょう。
それなのに、下見のときは、あまりのハードスケジュールに、一度も海産が食べられなかった八木なのでした。
なんといっても、チリ生まれでドイツ亡命歴の長かった(ゆえに、さらにドイツ化している)コーディネーター、カルロス・プクシオ氏の立てたスケジュールが、きついのなんのって。すでにラテン化(それもキューバ・メキシコ系)している八木には泣きそうでありましたぜ。
で、その反動で、某局スタッフが到着すると、さっそく海鮮市場に案内したのは、自分のストレス解消のためといえないこともありません。
さっそく、オードブルに、生雲丹、ロコ貝(チリアワビ)などを注文し、メインには、穴子のオイル焼きなど。飲み物はやはり、ワインです。
といっても、贅沢ではありません。チリではワインが、安い。下手すると、清涼飲料水よりも安い。スーパーの本日の特売などでは、日本だったらそこそこするといってもいいおいしいワインが、1本1ドルだったりするのです。
そして、むろん、海産も安い。中皿たっぷりの雲丹が数百円。
もちろん、海産だけが売りではありません。というか、むしろ、チリ人にはより一般的なのは、肉。
意外に(というと失礼だけど)、肉がおいしいのです。
ステーキのサンドイッチであるロミートを売りものにする軽食屋さん(といっても、日本人には、ぜんぜん軽食とは言えない)もたくさんあって、そういう店では、サンドイッチにアボカド、トマト、自家製マヨネーズ、キャベツの酢漬け(?)などを追加するのが普通。
また、こういうお店では、ショップと呼ばれる生ビールも置いています。
謎だったのが、「ショップ」はビールとして、やはりよく見かける「ファンショップ」。
これ、なんと、ビールのファンタオレンジ割り。
味はですね、苦いファンタというか、甘ったるいビールというか(まんまやがな)
「世界でもっとも不味い飲み物(某日本人スタッフの方談)」がなぜ、そんなにチリで愛されているのかは不思議です。女性向きらしいんだけど、わたしもおいしいとは思えなかったぞ。(それは、おまえが酒飲みだから、という突っ込みは不可ね)
あと、とくに、南部のチジャンに行くと、名物のロンガニサという巨大ソーセージもたいへんおいしいもの。たっぷりのポテトピューレを添えるのが、正しい食べ方らしく、けっこうハマっておられる方もおられました。(たしかに、理想のビールのおつまみかも)
また、同じくチジャンでは、七面鳥のポトフ(カスエラ)も名産。七面鳥なので、ちょっとぱさつくかと思っていたら、とんでもない。濃厚なスープに締まりのある肉質で、見かけとは裏腹に、絶品でした。
ところで、日本はもとより、メキシコでもキューバでも、マヨネーズというのは、チューブ詰めか瓶入りをスーパーで買うものですが、チリでは、いまだにマヨネーズというのは、家庭で作るのが普通のようです。
お宅に招かれると、必ずのように自家製マヨネーズのお皿が出てきて、茹でたムール貝やじゃがいもなどにつけて食べるのですが、これが、とってもおいしい。
この、マヨネーズを使ったポテトサラダも、よくつけあわせに出てきます。
ということで、マヨネーズの作り方を教わってきました。ただし、ポイントは、材料の配合ではなく「根性と忍耐」。
卵黄に、一滴一滴、油を落としながら混ぜていくのだそうで....。
恥ずかしいから黙っていましたが(爆)、バーミックスを使っていてさえマヨネーズ作りに失敗した私としては、反省しきりです。すいません。一滴一滴、忍耐なんですね。
というわけで、秋になったら、マヨネーズ作りにトライしてみようと思っています。
でも、チリ人の真面目さと忍耐強さの秘密も少しわかるような。
さて、日本でちょっと落ち着いたところで、忘れないうちに、放送内容に触れないところで、チリの話を少し。
チリのクーデターを扱った五木寛之氏の小説に、『戒厳令の夜』というのがありました。スペイン内戦〜アジェンデ政権の崩壊を縦軸に、詩人パブロ・ネルーダ、音楽家パブロ・カザルス、そして、画家のパブロ・ロペス(これだけは架空)という3人のパブロを横軸にしていましたが、ここでは、パブロならぬ、3人のカルロスの話。
まず、ひとりめのカルロスは、チリ側でコーディネーターをつとめたカルロス・プクシオ氏で、現地のフリーのTVディレクター。その正体は、かのサルバドール・アジェンデ大統領の腹心であった個人秘書オスバルド・プクシオ氏の息子さん。
おうちには、なにげにアジェンデ・グッズがいっぱいあるだけではなく、彼自身の父上も、30年前のクーデターのあと、ドーソン島の強制収容所に送られ、そのときの拷問がもとでお亡くなりになったうえ、彼自身も、そのためにドイツ亡命を余儀なくされた人。
バレリーナでもあるマリソル夫人は、当時、17歳。恋人が亡命しなくてはならないと知り、親の反対を押し切って一緒に行くことを決めたという、それだけでも、映画が一本作れそうな大ロマンスの主でもあります。
という方ですが、その人脈を使って、あっと驚く超多忙な方のインタビューのアポイントまでとってくださいました。
しかし、いま、わけあってスキンヘッドにし、さらにいつも黒っぽいコートを着ている彼は、なまじっか顔立ちが整っていることもあって、某局スタッフからは、
「でも、彼は、ルックスは悪役系だよね」
「にっこり笑って、主人公の親友とかを射殺する悪徳上司の役」
「あるいは、ソ連の大物スパイ役」
などと言われていたのを、もちろん八木は通訳したりせず、一緒に笑っていたのは言うまでもありません。(おいおい)
そして、PANDORA REPORTオリジナル版では、軍政と闘うレコード会社アレルセの社長として姿を見せる、カルロス・ネコチェア。
アジェンデ時代はミュージシャン。その後の軍政時代は、名ジャーナリスト、リカルド・ガルシアとレコード会社を設立し、その頭脳を武器に、軍の圧力や脅迫を巧みにかわしつつ、ヌエバ・カンシオンの復刻カセットをはじめ、新人の地下ヒット作を送り出し、チリの新しい歌運動の歴史を護り続け、軍政打倒までの一翼を担った人であります。
彼も、これだけで、番組の一本は作れそうな人といえるでしょう。
で、なんと彼は、いま、ヨーロッパと南米大陸をベースにした、フリーの凄腕プロデューサーとして活躍していたのでした。
ホテルから歩いて1ブロックのオープンカフェで、毎朝、優雅に特注のカプチーノをすすることを習慣にしている、このフランス映画に出てきそうなロマンスグレーの渋いおじさまに、ここで運命的に再会したのも偶然とは思えなかったのだけれど、その後、この番組制作を邪魔しようとするある人物によって、プロジェクトがトラブルに見舞われそうになったとき、チリの音楽とマスコミ業界に精通している彼は、まるでチェスの勝負をしているかのように、一瞬、眉をひそめると、じつにエレガントに切り抜ける知恵を授けてくれたのでした。
それにしても、取材終盤になって、
「○○の資料だけがどうしても見つからないのよね....」
と、わたしがカフェで唸っていると、
「あれ、それなら家にあるから貸してあげよう。なーんだ、はじめから言えば良かったのに」と、にっこり言われたときにゃ、脱力しましたぜ。
しかも、資料を借りにお宅に行けば、趣味の良い超高層マンションの広いベランダには、なにげなく、ル・コルビジェの椅子だよ、おい。
某局スタッフにも、「50歳になったとき、なっていたい理想のタイプ」と全員一致で言わしめた知的で洗練されたお洒落さは、特筆すべきものがありました。
ただし、女性には、ちと危険度高いかも。
そして、もうひとりのカルロス、こと、カルロス・ラルゴ。
彼は、チリ・ラジオの名アナウンサーであり、音楽プロデューサーであり、ペーニャ(ライブハウス)の経営者であり、エッセイストでもあった才人、故レネ・ラルゴ=ファリアスの甥にあたる人。
レネは、拙著『禁じられた歌』にも登場する伝説的な人物で、ビオレータ・パラを援助した人物でもある。そして、軍政終了直後、何者かに殺された。(右翼の犯行の疑いが高いものだったが、警察では強盗事件として処理された)
アジェンデ大統領の時代は、大統領宮からのラジオ放送を担当し、クーデターで逮捕されたが、隙を見て脱走。そのまま亡命した。そして、その身代わりに彼の弟であったカルロスの父親が逮捕され、拷問死したという。
アジェンデ時代、青年共産同盟のリーダーだったカルロス青年は、それでも軍政と闘う道を選び、チリ各地で抗議行動を続けるかたわら、兄弟で音楽グループ『エルマノス・ラルゴ』をつくり、軍政に禁じられた歌の演奏活動を、各地で行っていた。
そんなわけで、反軍政活動のドキュメンタリー・フィルムやニュース映像を見ると、だいたい、彼はその場に居合わせていて、その場の状況を詳しく解説してくれるのである。 「ほら、ぼくはここだよ」と、ヒッチコックのように、あるいは、ウォーリーのように、問題のフィルムの片隅に写っていたりもする。
彼も、彼を主人公に、ふつうのドキュメンタリーは一本作れるタマであるといえる。
そんな経験上、サンティアゴのあらゆる道路のみならず、チリ全土の地理に詳しく、知人も多い彼も、事情を知って、スタッフへ名乗りを上げてくれたわけです。
「それはいいが、きみもカルロスかい」(と、プクシオ)
「このままでは、日本人は、チリには他の名前がないのかと思ってしまうぞ」(と、ネコチェア)
まさかそれはないと思うけど、まぎらわしいのは確かだ。
さすがの硬派のラルゴくんも、ふたりの強力なおじさまにそう言われて、
「ううむ..........では、プロジェクト期間中、ぼくが、本名ではなくて、子供時代のあだ名を使うというのはどうだろう」
かくして、彼は、7月の一ヶ月間、カルロスではなく、『パト(あひる)』くんと呼ばれていたのでした。
冬のチリから、4日前、酷暑の日本に戻ってきました。
今日はちょっとましだけれど、いやいや、帰ってばかりの時は、茹だりました。
そして帰るなり、今度は、体育会系ラテンバンドのリハーサルが待っていたのであります。
クエカの6/8拍子長調の脳天気なリズムに慣れたところで、ビートの細かい3−2クラーベは、ほとんどカルチャーショック。
せっかくクエカが踊れるようになったのに、などという愚痴を言う暇もなく、新曲のリハーサルであります。
しかし、わたしはめげないぞ。(というところが、やっぱりわたしも日本人)
というところで、22日のライブにも乞うご期待。
(ところで、ファイル転送ソフトの設定の不備で、一挙掲載になってしまいました。読みづらくなってしまったこと、お詫びします)
さて、そろそろ長期にわたったチリ滞在も終わりです。
この間、ほとんど晴れ。
それも、この季節、雨がきわめて多いはずのチリ南部でも、毎日快晴。真冬のチリで、日焼けどめが必要だったとは、誰に想像できるだろうか。
ディレクター氏は、某局でも有名な晴れ男らしいですが、それにしても凄い。
そして、その勢いに乗って、日本人の働くこと。いや、ほんと、休みなし。
チリ人スタッフも、驚きを通り越して、笑うほど。
で、ついたあだ名が、「Trio los Trabajóricos」(トリオ・ロス・パンチョスをもじって、トリオ・ロス・トラバホリコス=ワーカホリック・トリオ)。
ちなみに、このトリオには、ディレクター氏、カメラマン氏、音響さんの3人で、わたしははいっておりません。
渡航前、ディレクター氏は、「ぼくはプロジェクトXとか、ああいう根性系感動ものって、あんまり好きじゃないんです」とのたまっておられたが、いやいや、きみの日本人度はとっても高かったよ。根性も大したものだ。感動した。(小泉調)
というわけで、八木以外のほとんどの方は、終わりごろには、体調を崩したほど。
最後の夜は、元インティ・イリマニのメンバー、マックス・ベルーの経営するレストランで、打ち上げを兼ねての宴会。
スタッフに加わってくれた元エルマノス・ラルゴのカルロス “パト” ラルゴとアレハンドラ夫人。
そして、人気バンド「イリャプ」のロベルト・マルケスとファニータ夫人に、いわずとしれた、店主マックスも加わり、最後は3バンド合同コーラス大会という、超豪華な打ち上げでありました。これを撮影できなかったのは、ちょっともったいなかったね。
いちおう、契約書も交わしているため、放映まで、ただいまわたしが働いている番組の中身はバラすことはできません。というわけで、さしさわりのない範囲で。
番組のテーマは、BBSでもかつて話題になった、チリの女性シンガーソングライターであり、民謡研究家であり、画家でもあったビオレータ・パラのもっとも有名な作品、『人生よ、ありがとう』をめぐっての物語です。
たんに、ビオレータの自伝的な物語ではなく、彼女の死後30年前のチリのクーデターを経て、彼女の作品のいくつかが政治的理由で禁じられ、彼女の歌を歌う人々が亡命に追い込まれ、その一方、軍政下チリで、彼女の歌、とりわけ、一見政治的ではない『人生よ、ありがとう』が、どういう運命を辿っていくのか.....それを描く番組です。
しかし、そのために、お約束の街頭インタビュー(笑....でもほんとに、皆さんご存じでした)とかビオレータの生まれ故郷あたりを訪ねる(まあ定番ね)はともかく、なんで、南極の近く、マゼラン海峡くんだりまで来なくてはならんのだ?
それも、寒いのが嫌いだから、わざわざ冬場は日本から逃げて、キューバかメキシコで過ごすというほど寒がりのわたしが、よりにもよって、なにが悲しくて、夏の日本から、冬のチリに来て、そのうえ、マゼラン海峡の吹きすさぶ南風に震えなあかんのだ?
と、いう疑問は、番組で。
その甲斐はあったとだけ申しあげておきましょう。
これでつまんない番組に仕上げたら、殺すぞ>ディレクター氏
それにしても、南米は6月から8月が冬。冷たいのが南風。水は逆方向に渦を巻き、太陽は北から。
こういう国では、暖かいトロピカルな島に行くのを「北の島に行く」というのだろうか。
冬物衣類をあまり持っていないため、借り物のダウンジャケットと、現地調達したアルパカのセーターとマフラーと手袋にくるまり、厳寒の南の最果ての島を目の前に、つまんないことを考えてしまったわたしです。
それにしても、東洋の島国のTVが、こういうことに興味があるというのは、チリ人にとっても喜ばしいことであるらしく(チリで見かける日本人TVクルーといえば、アニータ取材ばかりということもあって)、なぜか、われら取材陣に、チリのTV局や新聞の逆取材が殺到するという珍現象も。
イタリアの放送局が美空ひばりの番組を作る、という以上にインパクトがあるようです。
むろん、内容が内容とあって、大多数の人々は協力的なのですが、なかには取材に対して嫌がらせを仕掛けかねない方もおられるため、なるべく、目立たないように取材をするつもりだったのですが、例のラロ・パラ翁が、別の取材で、われらがクルーのことをしゃべりまくったようで、その翌日から、わたしのケータイに、チリのマスコミからの電話ががんがんかかる有様。
その結果、本日の大統領宮殿前のロケでは、われらがクルーに、チリの2大TV局がひっついての、取材されながらロケーション。
大爆笑。
わたしもしっかり直撃インタビューされ、(なんでも、ラロ爺様が、わたしのことを「女優かモデルのように美しい凄腕コーディネーター」とお話しになられたそうで)、それがまたゴールデンタイムに放映されたものだから、わたしたちご一行様は、すっかりチリの有名人。
町中や市場などで声をかけられるのはもちろん、わたしも最南端の地から首都に戻る飛行機の中で、乗客の方にサインを求められる始末。
なんかとっても複雑である。
しかし、ここまで有名になってしまうと、TVでも超好意的に報道されただけに、いまさら、邪魔したい人もできないであろうというのは、よいことではあります。
さて、チリでも、目下、話題なのは、「ゲイシャ」こと、アニータ・アルバラード。
とはいえ、日本の報道のように、チリで彼女が英雄視されているというようなことはありません。
当初の報道で、たしかに、彼女が「金満国家日本のバカな役所から、莫大な金を騙しとった」ことが、コンゲーム的な、つまり、庶民が喝采を送るような頭脳犯罪に見られたこともあったようですが、実状が露わになるにつれ、そういう声は小さくなっているようです。
というのも、チリでいま問題になっているのは、彼女が、チリ人女性を騙して日本に連れて行き、売春を強要したという罪。このことで、社会的非難が高まり、彼女が訴追されるのも間近という見通しも。
昨日も、彼女がらみの番組が2つ、チリでゴールデンタイムに報道されていました。一方は、彼女を徹底非難。もう一方はやや彼女を擁護気味。ただ、擁護気味の方の論調は、「日本でも彼女を応援する人たちがいる」という感じ。事実、街頭インタビューで、「アニータをかっこいいと思う」と答える日本人数名が紹介されていました。
しかし当たり前ですが、限りなく多数にインタビューすれば、そういう人もいるのは当然。
TVでの、「世論がまるでそうであるかのような、よくある手口」は、どこの国でも健在なのであります。
今日は七夕。
ただし、わたしは目下、南米のチリにいます。見えるのは南十字星。
などというと超かっこいいですが、じつは、某放送局のお仕事の下準備の滞在のゆえ、煩雑なプレ・コーディネート業務に追われております。要するに、撮影前の下調べと、予約ですね。
しかし、昨日は、仕事半分とはいえ、楽しいパーティーがありました。
パーティーの主催者は、フアニータ。わたしの20年来の友人で、チリを代表する人気バンドのひとつイリャプのリーダー、ロベルト・マルケスの夫人にして、時には過激な女性人権活動家にして、頭のリボンがトレードマークの可愛い人です。
(拙著「禁じられた歌」や「PANDORA REPORTのオリジナル版(文庫版ではないやつ)」にも出てくるカップルですね)
だいたいにして、いざというときに大胆な行動をとる腹の据わった知的な女性というのは、ふだんは、可愛くてエレガントというのが多い気がします。
フアニータも、子供二人が独立した年になっても、小鳥のような可愛い人。
で、今日のメニューは、大鍋に、鶏胸肉と魚貝類を入れて煮込んだチリ風海鮮シチューと、自家製のパン、大皿に盛ったゆでたじゃがいも、たっぷりのチリワイン。
彼女の話では、伝統的にはチリでは、じゃがいもが主菜(つまり、日本におけるご飯)で、パンを食べるというのは比較的新しい習慣だそうです。
そして、お客は、主賓が、ラロ・パラ爺様とその奥方。
ラロ・パラは、チリの伝説的なシンガーソングライターで、「新しい歌運動」の母とも呼ばれるビオレータ・パラの実の弟で、現在、85歳。
しかも、ただの有名人の弟というだけではなくて、爺様もすぐれた民謡歌手で、しかも、ここ2年というもの、チリのコンパイ・セグンド的人気を博しておられ、ライブは若者で満席、CDも何枚も出て、自叙伝も出ている有名人です。
ちなみに、このパラ兄弟。悲劇的な死を遂げたビオレータ・パラはもとより、長兄で95歳になるニカノール・パラも、ノーベル文学賞の有力候補に挙がっている高名な詩人というとんでもない家系であります。
で、ラロ翁。
たいへん陽気な方で、30歳年下の献身的なエリザベス夫人(8年前に互いに一目惚れで結婚なさったそうです)とも仲のいいことったら。バイアグラ不要だそうで。
そして、殺された名プロデューサー、レネ・ラルゴ・ファリーアスの甥で、軍政時代に過激な抵抗歌で名前をあげた音楽グループ『エルマノス・ラルゴ』元メンバーのカルリート“パト”ラルゴ。
他に数名。
それにしても、誰でもが、ワインの銘柄だけではなく、カベルネ・ソーヴィニオンのグラン・レセルヴァだの、シラーだのカルメニエールだの(以上、葡萄の品種)、適正温度がどうのテイスティングがどうのと、なにげに蘊蓄をたれるチリ、恐るべし。(そして、最後は何気なく、アルゼンチンワインをけなすのも、チリのお約束のようである、笑)
ということで、ここに登場の強烈なキャラクターの面々、これがなにを意味するかは、皆様、乞うご期待。
最近知った素敵な店。
大井町のラ・カンティネッタというワインバーです。
ワインバーといっても、バブリーにオシャレっぽい店ではなくて、静かなお店。
大井町の駅から、商店街を登っていくと、その名も『ベンセレーモスビル』という、過激な名前のビルがありまして、そこの1階裏手です。
「シラーの帝王」と異名をとられているらしいご主人は、中南米音楽ファン、それも、日本ではかなり珍しい、ヌエバ・カンシオンのファンの方です。お店には、八木の著作もあって、ちょっと恥ずかし。ワインもさることながら、そのオタク度もかなり高し。
でも、ここのお店のワインは、ほんとうに上質で、うっとりとさせてくれます。なにげに出てくるおつまみの一品一品も、趣味がいい。
ほんとは、マスターとゆっくりお話ししながら、ワインの蘊蓄などうかがうと楽しいのだろうな、と思いつつ、二度とも、別の方との仕事の打ち合わせに走ってしまいました。
そのうち、仕事抜きで行きたいお店です。
日本経済新聞のインタビューに行ってきました。
記者さんは、10年近く前にキューバで知り合った方。PANDORA REPORTにもちらりと登場なさっている方です。
久しぶりの再会のあと、インタビュー。7月中旬に記事掲載予定だそうです。
健康をテーマにした話なのに、この日の八木はやや風邪気味。どんな記事になるか楽しみです。
(註:ファイル転送のミスで、モノローグ掲載の方が遅くなりました、すいません。というわけで、ここに問題の記事があります)
大阪と神戸で立て続けにライブをしました。
今回は、ピアノに前回のTAOのライブでご一緒した吉田幸生さん。そしてギターに、これまた一度、ご一緒した西本論史さん。
吉田さん曰く、「八木さんが(バンドやプレイヤーに合わせるのではなく)気持ちよく歌えるようなバッキングをしたい」というお言葉どおり、気持ちよく合わせていただきました。
お店はどちらも初めてのところでしたが、行かれた方はご体験のとおり、どちらも好対照にして、雰囲気の良いところでしたよね。
神戸の「サロン・ド・あいり」は、ご主人が音楽好きで、奥様が元宝塚、ということもあって、シャンソン系の方中心に、採算よりも、独立系の歌い手をバックアップしたいというご主旨なのだそうです。
ここのライブ料金には、食事代も含まれています。というので、てっきりおつまみ程度かと思ったら、なんと大皿系とはいえ、とってもちゃんとしたお料理が。で、ステージのあとは、出演者・お客さんを交えての宴会モード突入というわけです。茄子の南蛮浸し、超美味しかった。
BBSでおなじみの方も何人かいらしていて、(ハンドルネームを使っていても、顔を見ると、なんとなくわかってしまうのが不思議)、予期せぬオフライン・ミーティングも。
一方、大阪の方は、ルスティックと呼ばれる、荒削りなカントリースタイルの木工工房idd Work Shopを会場にしたライブ。ここ、大阪のプレイヤーの間では、「演ってて楽しい」とすでに有名らしい。
というので、期待して行きましたが、予想に違わず。
もともと、わたしはルスティック(スペイン語ではルスティコ)な家具というのが大好きで、メキシコのコヨアカンにあるわたしの自宅では、食卓も椅子も、ベッドも机も鏡台も棚も、目につく家具はぜんぶ、木彫りのルスティコで揃えているほど。
なので、展示してある作品も、ああ買って帰りたい、という誘惑と戦わねばなりません。(ここで買ったら、メキシコにどうやって持って帰るねん?!)
あ、それでステージですね。はい。音響も広さもほどよく、噂に違わずいいステージだったと思います。なつかしい友人にも再開でき、個人的にも、とっても楽しかった。
ライブのあとは、吉田さん、西本さん、プロデューサーのオレペコ企画の岸田氏、シモーヌ深雪さんなどと、桜橋駅近所の居酒屋で一杯。岸田氏は、八木の関西ライブを企画するという奇特にしてありがたい方であるうえに、激安旨い居酒屋捜しの天才でもあるのでした。
それにしても、去年出たCD『Esta Mujer』。メキシコでも、レコード会社やプロデューサー主導ではなく、八木の歌(とキャラ?)を愛する作曲家やミュージシャンたち主導で作られたせいか、日本でも、プレイヤーの方々にたいへん好評のようです。わたしとしても、とってもうれしい。
悪いことは、確率的に、続かない。
というわけではないですが、プリンタは、いちおう、印刷ができるまでには回復。パソコン問題も、全面解決ではないけれど、まあまあ解決に。
ということだからではないですが、久々に、アンヘル・パラと話をしました。
ちょうど、フランスで、彼が中心となって作った、故サルバドール・アジェンデ大統領へのオマージュのアルバムが発売されて、その見本版を、フランス在住のライター&コーディネーターの對馬氏が、わざわざ送ってくださったのです。
このアルバム、アンヘル本人のほか、姉のイサベル、ビクトル・ハラ、グループ・ヴェンチスカ、そしてアンヘル・パラとのデュエットのために、ゼブダというフランスの人気グループの2人のヴォーカリスト、アクとムースという人たちが特別参加で、フランスでもちょっと話題になっているとか。
對馬氏の紹介文はこちら。
アジェンデ大統領の演説の肉声で始まり、懐かしの『不屈の民』のシュプレヒコール「El pueblo unido jamas sera vencido ! 〜 団結した民衆は決して負けない」から、ラップでのアンヘルの歌が重なる。これが、じつにオシャレ。
あの時代を古びた思い出であることから解き放ち、ふたたび、イラク戦争の硝煙立ちこめる2003年に、怒りを突きつけている。そのうしろに、ビクトルの曲がさらにリミックス風に流れる。「走れ、走れ、でなければ、君は殺される」。
これが冒頭のエキサイティングな曲、「大統領アジェンデ」
って、ただ、そういうレアなアルバムをコネで入手したっていう自慢話ではございません。これ、6月にメタカンパニーから日本発売決定だそうであります。
このご時世に、ふたたび、もうひとつの9.11にむけて、このアルバムを作ったアンヘルもやってくれるが、これを日本で出そうという会社が存在するのも本当に嬉しい。
溜め込んでいた雑用(これがまた、面倒がってあと回しにしてきたものだから、いざやろうとすると要領が悪い)を片づけていたら、プリンタが停止。
ぶつくさ言いながら、マニュアルを読み直し、接続をやり直すところからはじめて、いろいろなことを試して、ようやく半復旧すると思うと、インク切れ。(爆)
あわてて、前に買ったことのある近所の文房具屋に買いに行くと、なぜかわたしのプリンタ対応のインクだけが品切れ。絶句しながら、家に帰って、ネットショップで注文することにすると、なぜか型番が変わっていて、調べなおして注文するのにも四苦八苦。
そうこうしていると、今度は、パソコンにも異常が。
しようがないから、予備のノートパソコンを立ち上げると、げぇっ、液晶にドット抜けが!
と思っていると、今度は、わたしがボランティアで運営を手伝っている別サイトに、数日前からどうしてもアクセスができない、サイトはなくなったのですか、というお問い合わせ。
まさかと思って、アクセスすると、サーバーダウン。運営者に問い合わせると、復旧の目処が立っていないという。
このサイトは、ちょっとだけど公共的意味合いのあるサイトで、最近、頼りにしている方たちもそれなりにいるらしいというわけで、あわてて、無料サイトのページを検索して、ミラーサイトの立ち上げを試みる。
なんか、八木、悪いものでも憑いたのか?
確率的には、立て続けにエースが出てくる可能性はたいへん低いものですが、確率が低いから起こらないということではなく、なぜか、悪いことは続けて起こり、とりわけ、電気製品は立て続けに壊れる、というのは、皆様も体験がおありでしょう。
だから、昔の人は、そこに超常的な理由をつけたのだろうな。
それにしても、りそな国有化、個人情報保護法案の可決、有事法制、生命保険の予定利率切り下げと、イヤ〜な感じのするニュースまでが続きます。消費税も上がるかもしれないぞ。まるで、日本にも、なんか、悪いものでも憑いているような気がいたします。
と思っていると、一時復旧していたプリンタが、また止まってしまったぞ。ええい、カスタマーセンターに電話だあ。(爆)
フルーツタルト、ぶどうパン、苺のムース、フィナンシェ、生クリームカスタードプリン。
これが、ここ数日のうちに、わたしがつくったものです。
ゴールデンウィークは、どこにも出かけず、お菓子をやたらに作っていました。
意外に思われる方もおられるかもしれませんが、わたしは甘党です。
もちろん、PANDORA REPORTの印象どおり、お酒も好きです。
ワイン、日本酒(純米酒)、ラム、カクテル系。キューバにいるときなど、朝からモヒートス(ラムとレモンのミント入りカクテル)飲んでいるときがある。
もちろん、日本では、玄関の植木鉢にミントを栽培しているのはいうまでもありません。
で、甘い方も好き。要するに両刀遣い。(というとかっこいい)
そもそも、PANDORA REPORTのPANDORAというのは、10年ほど前のNifty Serve(現@Nifty)でのハンドルネームなのですが、このPANDORAの由来が、そもそも甘い。
よく、「PANDORAの箱のPANDORAですか」と訊かれたりするのですが、この機会にばらしてしまいましょう。
違います。
じつは、六本木に本店のあるPANDORAというケーキ屋さんが由来です。
ちょうど、10年ほど前(つまり、PANDORA REPORTのオリジナル版を書いていた頃)、この店は、大阪梅田のわたしの実家の近くにも支店がありまして、あのレポートは、ここのチョコレートケーキとレアチーズケーキと焼き菓子をエネルギー源に書かれたのでありました。(笑)
PANDORAの大阪店がなくなってからは、芦屋のアンリ・シャルパンティエにハマったりしたこともありましたが、とくに「ここ」という定番の店はありません。東京に引っ越してからは、一時、西新宿にあった「プロヴァンス」のミルフィーユを熱愛していましたが、この店も撤退してしまいました。
一方、メキシコの私の家の近くに「キャラメル」という妙な名前のケーキ屋が開店。メキシコのケーキ屋さんのケーキは、甘ったるくて大味なのが多いのですが、なんと、ここのはフランス志向の強い店で、ムースが絶品ということがわかり、これまた、メキシコ滞在中は、しばしば立ち寄っております。
和菓子の一押しは、大阪心斎橋の庵月の栗羊羹。値段のわりに小ぶりですが、その値うちのある一品です。夏なら、この店の水饅頭。どうして東京では売っていないんだ!
というわけで、「ここのケーキは旨い」という情報などありましたら、是非、お知らせくださいね。
予告されたように、イラク戦争は終わりました。
米軍がフセインの像を引き倒し、待ちかまえていたエキストラの民衆が、万歳して、解放を喜ぶ。
そして、戦争の口実であった化学兵器のことは、いつのまにやら「最も重要な問題」ではなくなっている。
もちろん、そのうちいずれ、どこからか化学兵器工場と称されるものが「発見」されたと発表され、米軍の攻撃の正当化はきちんとなされるはずです。米軍が占領しているところでなら、なんだってやれないことはない。
バグダッドの博物館から消えた古代オリエントの宝物も、かなりのものが、米国のコレクターの手に渡ったことでしょう。
それはわかっていたことではありましたが、少し暗澹たる気持ちになりました。
もちろん、わたしがフセインを支持していたというわけではありませんが。
どうせなので、告白をしてしまいましょう。
わたしにとっては、イラク戦争はひとごとではなかったのです。
というと、私の著作物を読んだことのある、カンの良い方なら、とっくにもうおわかりでしょう。
1989年のパナマ侵攻、そして90年の湾岸戦争。
あの時代、多くの人が「次はキューバだ」と思っていました。
当のキューバ人を含めて、ね。
そして、それはまったくの杞憂ではなく、あのころ、ボートピープル報道を含め、「いかにキューバは自由がないか」「経済が悪化しているか」「反政府デモがあった」「キューバが麻薬密輸をやっている」「キューバでは、政治犯を拷問している」というニュースばかりがマスコミを流れました。
あのころ、わたしはある「左派リベラル系」の雑誌にときどき記事を書いていましたが、その雑誌ですら、「キューバは、実際には、いま報道されているような状況ではまったくない」という論調で書かせてくれというわたしのオファーを受けいれてくれず、時流に乗った論説やエッセイを載せたぐらいです。
いま、キューバブームで、日本人がぞろぞろキューバのリゾートに出かけて、キューバ良いとこ、一度はおいで、ということになっている状況から思えば、冗談のようですが、あのころのバッシングはすさまじいものがありました。
あのころ、米軍がもろもろの理由をつけて、キューバ侵攻をおこなったとしても、同じように、「しょうがない」と思う人は多かったでしょう。
けれど、そのキューバには、私の友人も、家族同様の人たちがいたのでした。
だから、キューバが侵攻されたら、あのとき、わたしはためらわず現地に飛ぶつもりでした。
PANDORA REPORTは、まさにその時代に書かれたものです。
そのキューバ・バッシングはいかにして収まったか。
そのことも別の著書には書いていますので、その経過はご存じでしょう。
しかし、バッシングはおさまり、キューバが「悪の独裁国」から「カリブの天国」にかわったとしても、それは外の評価だけです。中身も政権も変わってはいない。
中身も政権も変わっていない国が、180度、評価が変わるのです。
マスコミの報道というのは、そして、報道戦略というのは、そういうものです。
あのとき、歴史が少し狂っていたら、わたしは間違いなく、爆撃される側にいました。
そして、いま生きてはいないかもしれません。
そして、そのときも確実に、「キューバが攻撃されるのはしょうがないと思います」
と、悪意なく、言い放つ人はいたでしょうし、そういう無邪気な人たちは、自分が理不尽な暴力にさらされるときが来るまで、自分の言葉がなにを意味するのか理解することはないのでしょう。
黒人、つまり、アフリカ系アメリカ人の唇が厚すぎると、文部省がクレームをつけて、教科書修正。
イラストレーターは、搭乗するすべての黒人を「唇が薄く、白人みたいな顔立ち」に描き直して、「修正した」そうだ。
こんな馬鹿げたことが、人種差別だとでもいうのだろうか。
たしかに、米国などで、日本人に対する揶揄的で差別意識に満ちたイラストを見たことがある。痩せていて猫背で出っ歯で、近眼眼鏡をかけて、卑屈で、スーツを着て、首からカメラを下げている、というようなやつだ。
これにはたしかに、明確な悪意というか差別意識がある。おそらくそれを見た日本人の大半が不快感を感じるだろうからだ。(しかし、その一方で、まさにそういう日本人がいるのも事実だということは認めなくてはならないが)
しかし、このオリジナルイラストは、そういう悪意の産物ではない。事実、混血の度合いの少ないアフリカ系アメリカ人は、遺伝的特徴として、唇が厚い人が多数派なのだ。
これはアジア人に、「目の細い人が多い」というのと同じことだ。
もちろん、日本人にだって、欧米系のルーツを持ちつつ帰化した方たちだっているわけだし、アジア系のDNAを持っていてもぱっちりした目の人はいるわけだが、一般的な人種的特徴としては、顔立ちは扁平で、目が細い。そして(ここが重要だ)、それはべつに恥ずかしいことでも悪いことでもなく、単なる事実だ。そういうことに過ぎない。
というより、「唇が厚く、がっしりした体型」が差別的であると感じる感覚こそが、「唇が薄くて、ほっそりした白人社会において伝統的に好まれてきた体型顔立ちこそが、美しく、そうでないものは美しくない」と感じる歪んだ美意識なのではないか。
文化が違えば、価値観が違う。
それは、快いと感じる基準、つまり、美の基準も味覚の基準も違うということだ。
そして、違うということを率直に認め、なおかつ、自分の基準を異文化の人に押しつけない、ということが国際理解なのである。
激辛のタイ料理をあなたが食べられなかったとしても、それが問題なのではない。(エスニック料理が好きだから、国際感覚があるということではないのと同じだ)
あなたにとっては激辛で、食べることが苦痛でしかない料理は、タイの人たちにとって美味なのであるということを理解することが重要なのであり、同時に、あなたの好きな日本料理である刺身やおでんが、異文化の人にとっては「顔が引きつるほど、キモチ悪くて、マズい」ものであるかもしれないということを理解するのが重要なのだ。
(実話だが、以前、ニカラグアから親善のために来た人たちが、『国際交流団体』に招かれて、「あなた達のために準備した」と恩を着せられながら、ニカラグア人にとっては悪夢のようなものを無理矢理食べさせられ、宴会のあと、彼らはホテルで気分が悪くなったことがある。翌日はもちろん、ウェンディーズでポークビーンズを食べていた)
美醜だって同じだ。首が長いのが美しかろうと、太っているのが美しかろうと、その文化の美の基準は違っているのが当然であって、それについて余所者がどうこういうことではない。
そこで問う。
アフリカ系アメリカ人のコミュニティの美の基準は、果たして、唇が薄い、アングロサクソン系白人みたいな顔であることだと、文部省は自信を持って主張しているということなのだろうか。
だとしたら、これこそ、60年代に、BLACK IS BEAUTIFULというスローガンのもとにわき上がった黒人公民権運動の精神に、真っ向から反する感覚だろう。
そのうち、文部省から、アフリカ系アメリカ人といっても、色の黒い人ばかりとは言いきれないから、と言いだすバカが出てくるのではないかと思ったのは、わたしだけではないだろう。
いっそのこと、民族の伝統的な美醜や価値観にまでわかったふりをしたいなら、日本の歴史の教科書に出てくる平安時代の下ぶくれの美女や浮世絵の美人画の顔も全部描き変えたらどうなんだい?
イラクがらみの、ちょっと肩の力が抜けるネタです。
作家の佐々木譲氏のホームページの「近況」欄に書いてあったツッコミ。
イラク侵攻映像と解説。市民の情報リテラシーを鍛えてくれます。
専門家が言う「これは反対側です。東岸の映像ですね」カメラはどこにあるというんだ?
「抵抗はありません。一方的な攻撃です」その戦車、後退しながら撃ってるじゃないか。
「影武者かもわかりません」影武者がテレビカメラの前に出てくるか。
「自爆テロの可能性があるので射ったのでしょう」自爆するのに高速道の反対車線を走るか。
「わたしの部隊はいま」あんたはやっぱり米軍第3歩兵師団の広報担当だったのか。
座布団3枚、という感じです。
おなじく、小説家鈴木輝一郎氏のサイトの日記から
テロ支援国家の根絶、といった理由だったら、あきらかに優先順位を間違えてる。イラクは限りなくクロに近いグレーだけど、北朝鮮はそのものずばりクロじゃんか……と、ここまで書いて気づいた。ブッシュ大統領のイラク攻撃の理由って本当は、 『北朝鮮は場所もよく知らないけど、イラクならお父さんに聞いてるからとりあえず』 なんじゃないか? いや、結構真実をついてるかもしれんぞ。何せブラジルの大統領に「おたくの国に黒人はいますか?」と聞いた人だからなあ。
これ、座布団2枚。
戦争が始まって以来、怒りの文章ばっかり載せております。
まあ、事実、怒っているのですから仕方ないですね。
ということで、最近、私の中で「評価をあげた」のは、言わずと知れたマイケル・ムーアとテリー伊藤。
評価を下げた人は.....まあ、改めて言いますまい。
と怒ってばかりいても、腹は減るのでありました。
なんたって、謀略サスペンスだっていうのに、主要登場人物は飲んだり食ったりしてばかり、という小説を書いた八木なのであります。
事態がキューバかメキシコであるなら、それとも、10年前のわたしであったら、さっさと人間の盾となりに飛んでいっている可能性がありますからな。文字通り、いまごろ、塩味だけの豆のスープばっかり食べる羽目になっているかもしません。
なんで、豆のスープかというと、10年以上前に、八木が、とある戦火の臭いのする場所の至近距離にいたころ、豆のスープばっかり食ってたことがあるので、どうも戦争というと、条件反射で、塩だけで味のついた豆のスープを思い出してしまうのであります。
(でも、考えてみれば、米軍の連中などは、きっとコンビーフやスパムミートの缶詰なんぞを食べていて、豆のスープのわけはないのだけどね)
脱線ついでに、こういうあまり意味のない連想をしていると気がつくのですが、そういえば、先日、朝ご飯を作ろうとして、うっかりして、ハムもベーコンもソーセージも切らしているのに気づき、たまたま家にあったドイツ製のソーセージの缶詰を空けたのですが、これが不味かった。
いちおう、ソーセージの本場たるドイツ製だから、缶詰といえどそれほどひどくはなかろうと、こういうときのために備蓄しておいたわけですが、やっぱ、缶詰は駄目ですね。
しかしこの缶臭いコシのないウィンナソーセージを食べて、強烈にキューバを思い出してしまったのであります。
なぜ、缶詰のウインナソーセージでキューバを思い出したのかというと、80年代の、ソ連東欧圏としか交易がなかった時代のキューバでは、ウインナソーセージというと、あの缶詰くさい代物しかなかったからであります。
あの頃のキューバ、ソーセージは悲しくなるほど不味かったけれど、キャビアを思う存分食べる、などというような得難い経験もございました。正しいキャビアの食し方とは、露西亜風の黒パンの薄切りをかりっとトーストいたしまして、そこにキャビアをてんこ盛りにし、バターを一かけ置いて、ウオツカと共に楽しむのでございます。
さて、話戻りまして、怒っていても腹が減るという話。
ちょうど、バーミックスというスイス製の優れもののハンディフードプロセッサーを、Yahooのオークションで格安で手に入れたこともあって、(おいおい、怒りながら、Yahooのオークションやってるのかよ)、こないだからうちの台所に転がっていた巨大な薩摩芋を、怒りの犠牲と供することにいたしました。
薩摩芋を輪切りにして、皮を厚めにむき、水にさらしてアクを抜いてから、電子レンジでやわらかくなるまでチンします。それから、ボールに入れて、砂糖、バター、卵黄、生クリーム、シナモン、白ごまを、怒りの赴くままに(笑)加えて、バーミックスでぐさぐさぐさぐさぐさ。
あっというまに、裏ごし状態になるので、これを俵状に丸めて卵黄を塗り、200度のオーブンで薄く焦げ目がつく程度に焼くだけです。これで、スイートポテトのできあがり。
というと簡単だけど、フードプロセッサーがないと、結構面倒ではある作業です。
それにしても、なかなかいいぞ、バーミックス。
スイスの300年の平和が生んだものは鳩時計だけ、という名科白は、言わずとしれたオーソン・ウェルズ『第三の男』でしたが、いやいや、鳩時計だけではない、このフードプロセッサーも大したものだよ。50年以上、大幅なモデルチェンジなし、修理部品は永久保証。ほとんど電気製品とは思えない。さすが、スイスという感じがします。
平和が生むものは、質実剛健、ということかな。
今年のエイプリルフールはなにもやりませんでした。楽しみにしていた方、期待を裏切って、ごめんなさい。でも、現実がこれだけ、毎日がエイプリルフール状態だと、少々の嘘ではもう楽しめませんね。
米軍快進撃も嘘なら、バスラ陥落も嘘、いうまでもなく、米国がそもそも場所も特定したと主張していた化学兵器工場の存在も、国連の査察団が事実ではなかったと発表したにもかかわらずの、この戦争です。
そういえば、イラクが捕虜の映像を公開したのは、ジュネーブ条約違反だと米国は批判していましたね。でも、そもそも、この戦争において、米国はイラクに宣戦布告をおこなっていません。つまり、最初から、ジュネーブ条約に違反しているのは米国の方。そもそも、ジュネーブ条約に違反して始まっている戦争であるなら、イラクにだって、ジュネーブ条約を守る義務はないと言われても仕方がない。
それにしても、パナマ紛争でも湾岸戦争でも、ホワイトハウスから見れば、見事に計算どおり、面白いほどうまくいった米国の「宣伝作戦」も、今回は、やや苦戦しているようです。
おそらく、その理由のひとつはインターネット。
10年前なら、財力と権力でマスメディアを押さえれば、報道などどうとでもなった。むろん、それに歯噛みする根性あるジャーナリストも多かったでしょうが、いかんせん、報道する媒体がなければ、どうしようもなかった。
でも、10年たった現在は、インターネットと携帯電話の時代です。そして、TVカメラも、一昔前とくらべれば、はるかにコンパクトになっている。デジタルスチールカメラでは、フィルムを交換する必要もなく、数百枚の撮影もできる。
そして、それらの情報は、たとえマスメディアが報じなくても、インターネットのホームページや電子メールで世界を駆けめぐることができる。
昔よりはるかに早く、しかも、多人数から、米国がもっとも隠したかった、傷ついたイラクの子供たちや、死体の山の写真が、多くの人の目に触れている。そうなれば、マスメディアもまるっきり知らん顔はできない。
あなたも、たとえば、Yahooで「イラク戦争」と検索してごらんなさい。フリーランスのジャーナリストや人間の盾となっているひとたちの、現地からの生々しいレポートをいくつも読むことができます。
そんななかで、昨日から、イラクへの電話が不通になりました。
米国もバカではない。そこに気づいて、電話局を攻撃したか、あるいは別の方法で、イラクとの電話回線を遮断したか。
もうひとつの、エイプリルフールかと思わせた事件が、1日の北朝鮮のミサイル実験でしたね。NHKニュースでいったん放送したあと、事実確認ができていないという報道になり、結局、ミサイル実験はあったらしいが、それを確認したのは米国で、日本ではできなかった。
だけれども、その米国の情報も、どこまで信用していいのやら。だって、イラクを破壊して、その復興事業でボロ儲けしたら、米国の景気はまた上昇するだろうし、その勢いに乗って、次に狙うのは北朝鮮でしょ。たぶん。
北朝鮮を米国が攻撃したら、たぶん、テポドンが日本を狙うだろうけど、そうなったところで、あくまで悪いのは北朝鮮だから、米国にとっては痛くも痒くもないわけだし。
ということで、「有事の場合、米国に頼るほかはないのだから、小泉のイラク戦争支持はやむを得ない」と本気で考えている人たちの救いがたい国際感覚の鈍さが、あらわになるわけだ。
本気で国益を考え、有事(つまり北朝鮮のことだろう)を考えるなら、小泉のやった唯一のまともな仕事である北朝鮮との国交回復も視野に入れた前向きの対話をきっちり続けていくべきだったのだ。それを棚上げにし、枝葉末節に騒ぎたて、挙げ句に今回、イラク攻撃にいの一番に支持表明した。いまごろ、金正日は、やっぱり低姿勢に対話するより、テポドンで脅しあげた方がマシだと思っているだろう。
ちなみに、イラク後の、ブッシュ氏のターゲットは、目下、チャベス大統領政権下、70年代初頭のチリに似た状況にあるベネズエラという噂もあるし、ここにきて、キューバからのわざとらしい「亡命事件」も相次いでいるので、八木はさらに嫌な気分ではある。
そうなのだ。しかるべき悪意と、ダブルスタンダードを是とする狂信と、たっぷりの資金と宣伝力があれば、「正義の味方も、悪の化身でも、作り上げるのはさほど難しくない」のだから。
ここ数日、世界中から、メールが届いている。
わが友、歴戦の戦場記者ブランチ・ペトリッチは、松葉杖を持ってバグダッドに行った。指揮者セナイダ・ロメウは、怒りの長文メールを送ってきた。
「米軍の前線に立つのは、ヒスパニックやアフリカ系アメリカ人たちです。戦争を決定した人間やその家族たちが、自分たちは絶対傷つかない安全なところで、のうのうと人殺しの命令だけ送っているような、そんな戦いのどこに正義があるというのでしょう」
そして、ここしばらく会ってはいなかった友人、シルビオ・ロドリゲスは一篇の詩を、メールに添付してきた。ここに、全文の日本語訳を掲載する。(原文はこちら)
天使との約束 (Cita con Angeles)
シルビオ・ロドリゲス
はるかなる時の彼方より
守護天使が舞い降りる
その使命に忠実に
蹂躙や独裁に対抗し
幼子の揺りかごや
瀕死の者たちに寄り添い
やさしき人々を見守る
翼を持った異世界のものたち
この天使が空を切って進めば
他に並ぶ者はない
その迅速な飛翔の目的は
異端審問の告発
気を逸らすことも弛むこともなく
いまはそのときではないと伝えるため
ブルーノ*を火刑台が待つ
カンポ・ディ・フィオーリに向かう
天使は高い空から降下する
その自由落下の冷たいこと
天使長の命令は
ドス・リオスまで降臨すること
それは5月の19日
泡の山と母なる山脈に
別の天使*が貧しき者たちと共に
馬から落ちた日
ちょうどきっかり午後1時に
哀れみ深い天使が
月の正面を通り
オリーブの上を飛んだという
そして悪巧みのゆえに翼を打ち抜かれ
ちょうどそのときスペインでは
ガルシア=ロルカが殺されていた
美しき大天使が羽ばたく
鉄の巨大な鳥の脇で
数十万の死体を作らぬため
その姿を現そうと
けれど大天使は息を詰まらせた
そして青い羽根を傷つけた
そして、ヒロシマの上空を通過したとき
巨大な鉄の鳥が口を開けた
輝く軌跡を残し
テネシー州メンフィス上空を
急いで飛ぶものがいた
狂ったように翼を動かし
喪へと急いでいた
その智天使は泣きながら
神とマーティン・ルーサー・キングに
残された時間を数えながら
天使は橋の下を通る
それから摩天楼を迂回した
群衆でいっぱいのセントラル・パーク
誰も天使など見なかった
いくつのユートピアの夢
いくつのイマジネーションが破壊されたことが
ダコタ橋で銃弾がジョン・レノンを貫いたとき
9月には風が咆哮する
身の毛もよだつふたつの結末に
それは同じ日に起こった
相似する憎悪のゆえ
かつて彼の地チリで
大統領が爆撃されるのを見た天使は、
数千の人と共に崩れ落ちる
ツインタワーを目撃した
希望を失った智天使は
地上から空に手を延べる
雲を鉛筆の代わりに
戦争に別れを告げようと
世界中のバルコニーから
ついに叫ぶ、これが私の戦い方
けれど大砲の持ち主は
空など見ないし、音を聴きもしない
追いつめられた天使の哀れなこと
一度たりとも、我らを救えはしない
おまえたちが無力だから?
それとも救う方法などないから?
これ以上の苦しみや
精神分析医の説教を避けるためには
私たち自身が小さな鈴を鳴らし
エゴイズムをなくさなくては
原文は、精妙に韻を踏んだ美しい響きのものですが、翻訳のため、そういった部分が割愛されてしまったことはご容赦願います。
なお、あなたのパソコンのデスクトップに反戦の意思表示を、という方は、このURLにアクセスしてください。無料のデスクトップピクチャがダウンロードできます。
ついに戦争が始まってしまった。
文章を書いては消し、ギターを抱えてはおろし、そのくせ、ビクトル・ハラのあの歌を思い出し、ふと気がつくと口ずさんでいる自分に気がつく。
ふたたび彼らは汚そうとしている
私の大地を、庶民の血で
自由を口にし
黒い手をした人たちが...
これは73年のチリのクーデター直前の不穏な空気の中で作られた歌ではあるけれど、不思議なことに、一致する。「自由を口にする人たちが、大地を血で汚そうとしている」ということが。
もうひとつ、一致がある。
血は争えないと言うべきか、戦争をしたくてたまらないブッシュ大統領の父親が仕掛けた過去の戦争のうちのひとつ、情報を統制し制御することで、悪役をでっち上げ、戦争を作り上げるというノウハウの先駆けとなった、パナマ侵攻事件で、象徴的なことがあった。
パナマ侵攻は、ご存じの通り、ある日突然、パパ・ブッシュが、パナマの最高権力者ノリエガ大統領が麻薬密輸の総元締めで、人権無視で極悪非道の独裁者であると騒ぎ出したことに始まる。そして、経済制裁の末、米軍がパナマに侵攻したのだ。
このとき、パナマのノリエガについて、米国では大きく報じられ、日本ではあまり報道されなかったある「非難ネタ」があった。
ノリエガは、黒魔術信望者で、自宅で黒魔術を行っているというのだ。
笑ってはいけない。日本人であるなら、「だからなんなの」というようなことだが、これが米国では、というか、少なくともパパ・ブッシュが顔を紅潮させて、「ノリエガを滅しなくてはならない重大な理由」の中にあげていたことなのだ。
つまり、米国とはそういう国なのである。
今回、マスコミでも、米国の新保守主義とキリスト教原理主義について少し報じられているが、ブッシュ親子に共通するこのふたつのイデオロギーというよりは、宗教がそもそもの根底にあり、また、それをこの親子は大義名分としてきたのだ。
そして、黒魔術かどうのなどという馬鹿げた話が、大きな影響力を持ってしまうのが、日本人の知らない、宗教国家としてのアメリカ合衆国の気持ち悪さなのだ。
アメリカを宗教国家というのは言い過ぎだろうか?
しかし、あの国は、最高権力者である大統領が、神の前に就任の宣誓を行う国なのだ。そして、今回、なにかというと神と自由と民主主義を引き合いに出すブッシュが、神の名のもとに、アラブの大地を血で汚そうとしている。
イラクは大量破壊兵器を持っているから、と彼はいう。
しかし、アメリカはそれを持っていないとでもいうのだろうか。
アメリカが持つのはかまわない。なぜなら、アメリカは常に正義だからである。
....それはただの宗教的狂信である。
この戦争の行方はどうなるのか。
アラブにはアラブで、自爆テロをも辞さない人たちがいる。
もしも、フセインが、わたしでも考えつく程度に狡猾であるなら、バクダットが陥落した瞬間に、アメリカ合衆国の各地で、化学兵器と生物兵器によるテロが始まり、大量のアメリカ人が命を失うことになるだろう。化学兵器も生物兵器も、空港のX線探査などに引っかかりはしないからだ。
アメリカはイラクで、非人道的な最新兵器を使うのだ。やられたらやり返すのは、彼らの理屈としては、当然だろう。
もし、そのようなことは起こらず、ブッシュの思惑通り、短期間で戦争は決着し、フセインは死に、テロも起こらなかったとしたら........それは、皮肉にも、フセインは、ほんとうに生物化学兵器を持っておらず、あるいは持っていたとしても、自らの死に直面してすら、それを使うのを思いとどまったということだ。
彼が、クルド人にやったことに非難から逃れる余地はないとしても、少なくとも、ブッシュが非難しているほどの悪いやつではなかったということだ。
こうして、アメリカは、矛盾に満ちた戦争に足を踏み入れた。
さてさて、ロックづいているわけではないのですが、友人に誘われ、ヘヴィメタ〜パンク系バンドの新作アルバム発表会へ。
メキシコのオルタナティブ・シーンではもっとも人気があるという『モロトフ』というバンド。モロトフ・カクテルのモロトフなんでしょうな、たぶん。
(モロトフ・カクテルがなにかご存じない方は、なるべくならBBSで質問しないで、Yahooかgoogleで検索するか、でかい辞書を調べてみましょう)
ヨーロッパを中心に、かなり海外ライブもこなしているらしきバンドで、開演前に流されたプロモーションビデオも英語・スペイン語の二カ国語。
会場も、ウィリー・コロン所有のダンスサロン『サロン21』で、前座は、メキシコ名物プロレスというなかなか濃ゆいライブでございました。
で、その歌の内容はと言いますと、
「俺たちのことを、国境を越える不法労働者などと呼ぶんじゃねえ、
国境越えて、よその国にちょっかい出しているのは、てめえらだろーが
俺たちのことをごちゃごちゃ言う前に、
てめえらこそ、国境線の前でおとなしくしてろ」
そうでございます。かなり明確な戦争反対ソング。
ヘヴィメタ、パンクス格好いいじゃねーか。
メキシコは目下、極右政党PAN(国民行動党)が政権を取っていて、極右フォックス大統領(名前まで「キツネ」ときている.....)は、もちろん、我らが靖国万歳小泉くんと同じく、ブッシュ大統領のご機嫌取りにまわっているのだけど、そういえば、わがコヨアカン町内の中央広場にも、数日前からでっかい看板が上がっております。
「コヨアカンは、戦争に反対を表明します」
で、コヨアカンの中央で、世界同時に戦争反対の戯曲を読むという抗議行動イベント。
それにしても、しびれるねえ。この看板。日本でもやればいいのに。
小泉がなんと抜かそうと、「長野県は戦争に反対します」とか「○○町2丁目は戦争に反対します」とか。
で、思う。日本では、ぜったいにやらないだろうな。そのへんが、わたしがどうしても、日本を安住の地に選びたくない理由なのだ。
さて、今夜は、なぜかロック・コンサート。
メキシコでもっとも人気のあるロック・バンドであるハグアレスのライブであります。
ハグアルというのは、ジャガーのこと。もともと80年代にブレイクしたカイファネスが改名して、今の名前になった。
80年代は、メキシコのロックが花盛りだった時期で、たくさんのバンドが生まれ、人気を得た。そして、20年の歳月が過ぎ、その中で残っているごく僅かなバンドのうちのひとつが、社会派にしてカリスマ的なヴォーカリスト、サウルを擁するこのハグアレスというわけ。
市の中心部にあるコロニアル建築のテアトロ・メトロポリタンでロック・コンサートというのもメキシコらしいが、前半はアンプラグドで、全編アコースティック。しかも、なんと、前半のゲストがソノーラ・サンタネーラ。
名前の通り、ソノーラ・マタンセーラのスタイルを踏襲して結成されたメキシコの由緒ある、というか、こてこてのラテン・ダンスバンドであります。
黒ずくめのロックバンドにいきなり乱入するソノーラ・サンタネーラは、全員、白のスーツに白黒コンビのぴかぴかの革靴で揃えた丸顔のおっさんたちという、笑えるほど由緒正しいダンスバンド・スタイル。そして、ステップ踏み踏みはじまるチャチャチャのリズム。
........ハグアレスのヒット曲がチャチャチャで登場である。
これってね、ほとんど、ARBのコンサートのゲストがオルケスタ・アラゴン、みたいな感じなんである。
いやあ、笑えました。さらにそこで踊ってしまうハグアレスのメンバー。ほとんど硬派のロックバンドとは思えないぞ。
さすがにこれはご愛敬で、2部は、ばりばりのブリティッシュ系ロックサウンドを聴かせてくれました。社会性も相変わらずで、いまはもちろん、メキシコ先住民問題、そして、ブッシュ批判と反戦メッセージ。
えー、それでですね。サウルはかっこいいっす。80年代の末はドラッグに溺れて、キレまくっていたようですが、20年経って、スローバラードが似合う年になったということで。それが物足りない口もあるようでしたが、わたしは落ち着きのある中年男が基本的に好きなのである。腹が微塵も出ていないところなど、とくに得点高し。
(ほとんど、ソノーラ・サンタネーラと同世代の同じ国の人間とは思えない.....)
わたしも、腹筋運動やろう........明日から。
昨夜は遙か、メキシコ州までライブを聴きに。
メキシコ州って、八木はメキシコシティにいるのでは? と思われた方も多いでしょう。
ええ、じつは、メキシコシティは世界最大級の都市ですが、その周囲をこれまたメキシコ州(Estado de Mexico)というまぎらわしい名前の州が取り囲んでいるのです。そして、メキシコ市の人口集中と膨張にともなって、このメキシコ州も、メキシコ市のベッドタウンとして発達してきている。
シウダー・サテリテ(直訳すると、もろ「衛星市」)も、そんなベッドタウンです。
メキシコシティから、車で北西方面へ。最近、日本でもよくTVや雑誌で取り上げられる建築家ルイス・バラガンの作った「タワー」を越えると、いかにも近代的な衛星都市が広がるのです。
『サポ・カンシオネーロ』は、そのサテリテにある巨大複合商業施設プラサ・サテリテの近くにある、今では数少ないペーニャのひとつ。
ペーニャとは、フォルクローレ系の音楽を演奏するライブハウス。
本来、ペーニャというのは、友達を集めた集会のことですが、60年代終わりのチリで、ビオレータ・パラやその娘のイサベル、息子のアンヘルが、自分たちのライブハウスにペーニャという言葉を用いたことから、別の意味の方が一般的になったのです。
で、70年代から80年代にかけて、メキシコもフォルクロ−レ・ブームだったころ、チリのクーデター後、亡命してきたアンヘル・パラがつくった『ペーニャ・デル・アンヘル』を皮切りに、サン・アンヘル地区の『エル・コンドル・パサ』、バジェ地区の『メソン・デ・ラ・ギターラ』など、雨後の竹の子のようにたくさんあったものです。
この時代、中南米諸国の他の国々は、軍政に墜ちたところが多かったため、亡命してきた音楽家たちが、そういったペーニャに活躍の場を求めたこともあって、メキシコのペーニャは、メキシコ人演奏家だけではなく、アルゼンチン人、チリ人、ウルグアイ人、ボリビア人、ニカラグア人......中南米のいろいろな音楽が聴けるところでした。サナンパイ、インカ・タキなど、そういった雰囲気の中から生まれた質の高い混成グループもありました。
それらが、90年代に入ってからの世界的な右傾化の波と、USA音楽の怒濤の襲来に対しての規制がなくなったことから、いまは、不毛の時代を迎えていて、閉店する店も多い中、『サポ』はがんばっている店といえるでしょう。
で、今日のお目当ては、ある若い女性歌手。まだ19歳。
若い男性二人組のデュエットが終わって、10分ほどの休憩のあと、ほっそりした体を黒いスカートと色鮮やかなグアテマラはチチカステナンゴの民族衣装のウィピル(手織の厚手のブラウス)で包んだ彼女が出てきました。あれれ、こないだ会ったときは、子供子供していたのに、すっかり大人の女です。
ギター1本の伴奏で、メキシコの民謡。それからアルゼンチンの歌。
歌い方は新人とは思えないほど安定していて、声量も存在感も抜群です。
マリア・イネス・オチョア。10年前に癌で亡くなったメキシコの生んだ大歌手で有り、私の友人でもあったアンパロ・オチョアの忘れ形見。
姿も声も、おかあさんに似ていますが、より洗練された感じがするのは、若さのせいでしょうか。すくなくとも、確実に彼女のDNAには、おかあさんの美貌と才能が刻み込まれているようです。
「どうだった? 私のライブ」
マリア・イネスがわたしに聴きます。
すばらしかったわ。あなたのお母さんを思いだしてしまった。
でも、そのマリア・イネスに母親のアンパロの記憶はあまりないといいます。彼女が幼い頃に亡くなり、その前ですらも、旅公演の連続で、ほとんど家にはいなかった。それでも、その母親を尊敬すると言い切る彼女。そして、無名の若い作曲家たちの作品をどんどん歌いたいと目を輝かせる彼女。
あなたはいい歌手になるでしょう。時代の波はあなたに逆風となって吹き付けるけれど、あなたの実力があれば、天国のお母さんがあなたを護ってくれるに違いない。
メキシコのもっとも貧しい地域であるチアパス州先住民の救援のためのライブに行ってきた。
で、会場に着くと、入り口付近でいきなり、ガビーノ・パロマレスとアルマンド・チャチャが立ち話。ガビーノは、60年代以来の硬派のフォークシンガーで、メキシコの『新しい歌』の運動のリーダーの一人。アルマンド・チャチャはベラクルス出身のシンガーソングライターだ。
「あら、こんばんは」
「やあ、今日は君が歌うんだってねえ」
をいをい、ちょっと待ってくれよ。
「....わたしは、ガビーノが歌うって聞いたんだけど」
さすがは、ペンタグラマ社の名物親父の主催である。
この日、メインは、チアパス出身の詩人のルイス・バニュエロスの詩の朗読だったが、客としてきていたつもりのミュージシャンはほかに、グスタボ・ロペス(わたしのアルバムの『Hablo de Un Corazon』を作った人だ)、ロック系にしてスキンヘッドのアルベルト・ガライらが、結局、みなステージに上がる羽目になった。カンパ80ペソにしては豪華なものだから、お客は大喜び。
それにしても、アルベルト・ガライに会ったのは久しぶりだった。何年ぶりだろう。
あとで話してみて驚いた。10年ほど前に心臓発作で倒れ、命を取り留めたものの、ずっとリハビリ生活を送っていたのだという。手足も動かせない状態からの復帰。そういえば、風の噂で、彼が病気で入院したとかいう話を耳に挟んだ記憶があったが、まさかそんな重体だとは思ってもみなかったのだ。
「じつは歌ったのは、10年ぶりなんだ.....ギターを弾いたのも」
社会復帰したものの、ステージを離れてかなり経ち、また、体力的に自信が持てなかったこともあって、歌はやめ、プロデュース業に専念していたのだという。新規のレコードレーベルを立ち上げて、すでに30枚ほどのアルバムを送り出した。
「もう二度と歌わないつもりだったんだ.....なんで今日歌ったのかな.......座っていたら、モデストが声をかけた『おい、1曲歌わないか』ってね.....そしたら、なぜか『いいよ』って、何気なく答えてしまったんだ」
それから彼は自問自答した。おい、正気か? アルベルト・ガライ? おまえ、10年も歌ってないんだぜ???
そうしたら、心の中の別の自分が答えた。いいじゃないか。1曲だけ。だって、今日はチャリティだ。
「でも、良かったわ....あなたの歌」
厳密に言えば、高音が安定していなかった。ギターワークもミスが目立った。
でも、10年ぶりだったのだとしたら、それは問題ではない。それより、さっきわたしがどきりとしたのは、何かを感じたからだ。なにか。そして、それは確かに「良かった」。
「もう一度、歌えるわ。アルベルト。歌ってよ」
「うん」
なにか、突き抜けたような透明な笑顔で、アルベルトは言った。
「ぼくもそんな気がしてきた。今日、来て良かったよ」
2月頭から、メキシコに来ています。
厳寒の日本から来ると、こちらは本当に暖かい....というか、暑い。昼間は、Tシャツ一枚です。
コヨアカンの家は相変わらずで、お気に入りのレストランもカフェも変わらず営業しています。
が、街で目立っていた緑のワーゲン・タクシーがめっきり減っています。そのかわりに出てきたのが、赤白ツートンのタクシー。
ワーゲンは排ガスがひどいのと、強盗の被害に遭いやすいため、赤白のセダンへの買い換えを政府が奨励しているとか。また、横行していた偽タクシーを減らすという意味あいもあるようです。
ここ数年、メキシコの流しのタクシーは危ない(特に夜は)というのが、メキシコ人の間ですら定説となっていて、夜にタクシーに乗るときには、ほぼ倍近い料金の業者のタクシーを電話で予約するというのが普通になっていました。
危ないというのは、遠回りをして料金をボルなんてのはよくあること、運が悪いと、タクシー運転手が強盗とグルで、身ぐるみはがされるというようなことが頻発していて、わたしの友人知人で被害に遭ったのが、ひとりふたりではない。
メキシコのタクシー料金は安いとはいえ、わたしは仕事柄、夜に出歩くことが多いので、タクシー代の出費がバカにならないので、流しのタクシーの安全性が高まって、気軽に乗れるようになると有り難いことこのうえないのですが、その一方で、あのシティの名物だった可愛いワーゲンタクシーがなくなるのはちょっと寂しい。
そう思っていても、数年後には、ワーゲンタクシーは記憶の中だけのものになってしまうのでしょうね。そうやって、気がついたら、記憶の中だけのものになってしまっていたものって、いったいいくつあるのでしょうか。
さて、BBSでの質問にお答えする形で。
海外のある地域の治安が悪いかどうか、というのは一概に言いにくい場合があります。日本でも強盗殺人に遭う人はいるし.....。運というのも、大きな要素です。
ただ、一般的には、日本人は、外国旅行というと、周囲へのお土産を買う習慣があるうえ、少額の買い物をクレジットカードで行う習慣がないので、結果的に大金を持ち歩くことになり、狙われやすいというのがあります。それと、基本的に治安のよいのに慣れているので、警戒心が薄いとか、チップの習慣がないので、多めのチップを置きやすい....とか、案内人などにタカられると、言い値を払ってしまうとか。
でも、だから団体旅行が安全かというと、そうでもなく、かえって、団体なので、安心して(気が緩む)というのもあるようです。実際に私が知っている例では、グループで、誰かが荷物を見ているつもりが、結局、誰もちゃんと見張っていなかったために荷物を盗られた.....なんてのがありましたね。あと、一流ホテルのロビーやカフェで、置き引きされるとか。
一流ホテルのロビーやレストランは、じつは、小綺麗な恰好をしていれば誰でも入れるので、プロの泥棒の絶好の稼ぎ場なのです。フロントでのチェックインやアウトのときのあなたの荷物、また、朝食ビュッフェでの、椅子の上のバッグにご注意。
常識として知っておくべき決めごとは、したがって、常にある程度、緊張感を持っているということ。
特定の目的があるとき以外、100ドル以上の現金やパスポートを持ち歩かないこと。(高いものは、なるべくクレジットカードで支払う。もちろん、買い物は全部控えておきます)。なくして惜しいような装身具や時計を身につけないこと。20ドル程度の見せ金を持っておいて、強盗にあったら抵抗せずに金を出すこと。タクシーに乗る前には、料金の交渉をすること。また、無条件に運転手を信じないで、そのタクシーにナンバープレートがあるかどうか確認して乗り、あらかじめ道順を地図で調べておくこと。
小銭は直接ポケットに入れ、バスに乗ったりする程度の、ちょっとした支払いに財布を出さない、というのもコツかも。
荷物の数を増やさないというのもコツのうちです。
ちょっと旅慣れた人には、スーツケースを「団体旅行者向け」とバカにして、バックパックにこだわる人もいるけど、バックパックはひとつだからいいのであって、(パスポートや航空券を入れる小さなバッグを別にして)荷物が3個以上になるなら、鍵がかかるでかくて目立つスーツケースをひとつ持つ方が、管理ははるかに楽です。
もちろん、スーツケースは、派手で目立つのを選ぶ方がいいです。
いずれにしても、高価な衣服は外国では不要です。新品衣料もやめましょう。
日本でちょっと流行遅れなんだけど、破れているわけじゃないので、捨てるにはちょっと.....とタンスの肥やしになっているぐらいの服がちょうどいい。あと昔買ったのはいいけど、今着るには派手でちょっとね、というような服は、ラテン諸国では、ばっちりです。わたしは10代のときに日本で着ていた超ミニのスカートとか、フリルひらひらとか、ショッキングピンクの服を、メキシコやキューバやアルゼンチンで着てますぜ。(笑)
ちなみに、胸にブランドマークのついた新品のポロシャツとジーンズに、おろしたてのスニーカーという黄金の組み合わせにカメラ入りのショルダーバッグ(またはバックパック)を持っていると、「私は日本人のカモで、バッグには数百ドルの現金その他が入っています」と宣伝しながら歩いているようなものです。
わたしの場合、複数のクレジットカードを持ち(もちろん、同時には携帯しません)、20ドル以上の食事や買い物は、(現地通貨を使い切りたいときや、現金払いで大きな割引がある買い物をしたいときなど以外は)クレジットカード。
ドルを日本で換金することはあまりなく、キューバ以外の国なら、シティバンクの銀行カードで、お金を現地でその都度、引き出します。
(いま、たいていの日本の銀行でも、外国でお金を引き出せるサービスしていますよね)
あと、わたしは、よくスラムだの危険地帯などに潜入取材したりしてますが、そういうことを、素人さんが、真似しないこと。(笑)
あれはしかるべきコネがあり、しかるべきスジに話を通して、地元の人に案内されているし、わたし自身、そういう取材に慣れていて、地元の人に嫌われるようなことはしないから、フクロにされないだけの話です。
キューバはその点、一般的な治安はよい国です。たまに引ったくりや置き引きはありますが。
むしろキューバの場合、問題なのは、キューバに思い入れのある人が行くケースが多いため、知り合いになったキューバ人から、結果的にお金をせびられてしまうことが多いことです。
これが、あくまでも個人レベルで、街で知り合いになったキューバ人の家に案内してもらい、感じの良い家族にも歓迎され、食事をご馳走になったりして交流し、そして、キューバの現状を知っているだけに、少しドルをカンパしてあげたい、という気持ちから出たものであるだけなら問題はない、というか、他人がどうこういうことではないのですが、最近は、観光客を相手に、「疑似友人」をやって、けっこうボロ儲けしている「プロ」がいっぱいいるということを、今後キューバに行かれる方は知っておいた方がいいでしょう。
はっきりいいましょう。ラテン人が陽気で人なつこいのは事実ですが、まっとうで地道に働いている真面目なキューバ人は(キューバ人に限らず、メキシコ人でも、日本人でも)、理由もないのに外国人に声をかけたり、さほど親しくもないのに家に招待するなんてことは、そうそうあることではありません。もちろん、純粋に外国人に対する興味や親近感で、家に招待してくれる人は、キューバに来たばかりの外国人に対して、「キューバは今、とても経済が大変で....」なんてことは、口が裂けても言いません。
さらに、ここ数年、一部の留学生の方や一部のTVクルーなどの影響で、日本人は「言い値で払う」という認識が、ある種のキューバ人に蔓延しています。ちょっとしたことに100ドル、200ドルとふっかけてくるという事実があります。
さらに、そういう日本人をターゲットにしたマフィアに似た連中(一部の政府関係者、旅行関係者、音楽関係者)もいます。
取材などで滞在するホテルに関して、グルになって出鱈目な情報を流し(取材陣は特定のホテルにしか宿泊できないなど)、通常の倍額近いホテル代や、査証取得料金などを徴収し、さらに無料であるはずの記者登録カードに、数百ドルの値段を要求し.....と、その手口が、あの手この手で、搾り取るもの。あげくに、取材しているうちに架空のトラブルをでっち上げて、その解決と称して数万ドル単位のカネを要求するなどというケースさえあります。
おそろしいのは、キューバ大使館などが紹介するような政府機関や、日本人がなんの疑いもなく信頼してしまいそうな大手日本企業の海外支社の駐在員、キューバに長年住んでいるとされる在住日本人などに、こういう手合いが混じっていることです。
キューバとのつきあいの長い私としては、キューバがロシアのようにならないことを祈るだけです。
ところで、北朝鮮から帰国した拉致被害者の方たちについて。
まるで、横井庄一さんのように歓迎を受け、それぞれ就職をお決めになりました。それはたいへん結構です。
一方で、他にも大量の拉致被害者が存在するのではないかという疑いから、40数名の名前が公開されました。
で、ここで、また素朴な疑問。
以前、私は、こう指摘しています。
>> 日本語が流暢だなというのが、第一印象。いくら母国語でも、使わなければ言葉は錆びつく。ちょっとした単語が口からでなくて、詰まったりするのだ。
>> それがないところをみると、おそらく、彼らは北朝鮮で、つねに日本語を使う環境にいたのだろう。
>> そういう意味では、「周囲も日本人であることを知らなかった」というのはちょっと眉唾かも。まあ、扉が開けば、いずれ少しづつわかってくることですが。
日本語が流暢であって、常に複数の日本人と接していたとしか思えない彼らなのです。
他の拉致被害者日本人に会わなかったわけがないと思うのですが、なぜ、彼らの口から、一言も、そういう話題が出ないのでしょうか。むろん、安全保障上等の理由で、証言内容はもちろん、証言を行ったこと自体がマスコミで公開されるようなことは絶対にないという条件下で、政府関係の担当者に対して、証言を行っている可能性もないとはいえません。むしろ、そうであってくれたら、と願います。
そうでないなら........彼らは、カラオケ歌ったり、就職を決めて喜んでいるどころではないと思うのですが。
と、ここまで書いたところで、週刊朝日の記事。
(この号の書評欄に、写真家の岡部くんが取材されているインタビュー記事が出ているというので手に取ってみたら、例の編集長が陳謝したという北朝鮮拉致被害者の方のインタビュー記事が出ていたというわけ)
はっきりいって、オフレコ云々がと騒ぎ立てるほどの記事ではないとしか言いようがない。なにが気に入らなかったのだろう。
そもそも自分の言っていないことが書かれた、とか、非常に曲解した書き方をされた、というならわかる。
あるいは、きわめて重要な事実ではあるけれど、オフレコという条件の上でないと、そのこと(つまり、自分が喋ったことのせいで)北朝鮮に残した家族や、あるいは他にもいるかもしれない拉致被害者の安全が保証されなくなるかもしれない、というような内容のことを、無神経に書かれた、というなら、これまたわかる。
しかし、問題の記事は、そのどれでもない。
強いていうならば、地村夫妻の話は、「彼らにとっては、事実であり、率直な感想なのだけれど、現在の日本の国民感情を考えると、誤解を招きかねない表現がある」ということだろう。
ただ、それにしても、だからそれがなに、という内容なんですよね。
(まあ、そういう理由で、私も実はニュース関係者の方たちと、「オフレコ話」をすることがよくあるけど、それは「実名が出る」とか、かなり「毒がある」ケースに限られるからね)
要するに、地村夫妻は、「北朝鮮は日本人が思っているほど非道いところではなく、自分たちは案外、普通に暮らしていたし、人が突然消えたりするのも、『そういう人は悪いことをしたから』べつに普通のことだと思っていた」とおっしゃっているわけで。
でもそれは(その感覚は、おそらく北朝鮮で生き抜く知恵であったのかもしれないその無神経さも含めて)、ある意味、北朝鮮が生存者として送り出し、金日成バッジをつけて戻ってきた人にとっては当然のことじゃないのかな。
要するに、彼らは、そういう人たちなのである。疑問に思うことをとことん掘り下げようとしたりする性格じゃないし、ましてや逃げようとしたわけでもない。良く言えば、すべてをあるがままに受けいれる。だからこそ、消えることもなく、北朝鮮で長い年月を暮らし、なおかつ送り出されてきたのだ。彼らは逆説的な意味で(それが、もともとそういう性格なのか、敢えてそうやって生き延びることを選択したのかは別として)、これっぽっちも英雄的ではないからこそ、結果的に脚光を浴びることとなった人たちなのだ。
むしろ、私から見ると、他の人の消息などについても、記者はとくに突っ込んだりもしていないし。無難な記事にさえ思えるぐらいだ。
この記事を読む限りでは、地村夫妻は、典型的に「ものごとを突き詰めないし、他人のことに興味ないし、長いものには巻かれろというタイプ」人たちである、ということしか伺えないし、それはたぶん事実なのである。彼らは、運命のいたずらでこうなってしまったが、いまも、本質的には骨の髄まで「普通の人」なのだ。
結論からいうと、北朝鮮からの帰国者というだけで、腫れ物に触るような、というか、過剰反応的な扱いは、今後の交渉のためにも、彼らのためにもならないような気がする今日この頃である。
で、気がつく。週刊朝日の記事で、そう思われることが、問題だったのだろうか?
昨日はわたしの誕生日.....だったのですが、自主的におめでとうを言ってくれたのが、ダイレクトメールのみ。ちっ。(誕生日を喜ぶ年でもないんだけどさ)
さて、気を取り直して。
最近はまっているのが、自家製のヨーグルトづくりとパンづくり。
どちらも、意外に簡単です。
とくにヨーグルト。
種にするのは、市販の砂糖なしのナチュラルヨーグルトです。これを買ってきて、パックを開けたときに、熱湯消毒したスプーンで二匙ほど。
これを、やはり熱湯消毒した容器に入れて、人肌程度に暖めた牛乳を注ぎます。あとは蓋をして、暖かいところに置いておくだけ。
夏ならどこでもいいし、冬場は、わたしは電気ポットの上に置いています。炬燵の中でもいいでしょうね。(ただし、蹴飛ばさないように)
容器は熱湯消毒ができるものならなんでもいいのですが、わたしが使っているのは、旭化成から出ているジップロックコンテナーの大というやつ。これだと、そのまま蓋もできるし、一気に800ml以上できるので、食べ応えがあります。
あとは、好みの果物やジャム、蜂蜜などと合わせて食べるだけ。これで、お腹はすこぶる快調です。しかも、笑っちゃうほど安上がり。
ヨーグルトは、そのまま食べるほか、夏場だとインドのラッシーもよく作ります。
これは、ヨーグルトと牛乳、冷水、砂糖をミキサーに入れるだけ。これまた簡単にインド料理店の味が楽しめます。
カレー粉(ほんとはタンドーリスパイスだともっといいけど)とヨーグルト、塩胡椒を練ったものに、チキンを一晩漬け込み、次の晩にオーブンで焼くと、タンドーリチキンもできます。
ヨーグルトに少し塩を入れて、キュウリにかけてもおいしい。
パンづくりは、べつに、パン焼き機を買ったわけではありません。
村上祥子さんのホームページで紹介されている電子レンジで発酵時間を短縮させて、あっという間にパンを作るというやり方。
おもしろがってやってみたら、これが、ほんとに簡単で、しかもなかなかおいしい。好みの具も入れられるし。ピザ生地もインドのナンもつくれます。
使用容器も、旭化成の(回し者か、おまえは?)ジップロックコンテナーの丸大というので、ものの見事にうまくいきます。あとは、100円ショップで買った泡立て器と菜箸ひとくみ。
ある知人の方のBBSで、ドアを開けたら、黒人が立っていた、という新手の訪問販売、というか寄付集めの話が出ていて、思わず爆笑。
「この方の名前はガボンさんです」と連れの女性が言い、当のガボンさんが、
「はじめまして、よろしく」と握手。
その方も、思わず、2千円出してしまわれたそうですが、貴重な体験として面白かったとのこと。
たしかに、シュールな体験です。
わたしの場合、ある日、突然、テロリストを名乗る方から電話がかかってきたというのがありますが、まあ、ほとんどそれに近いものがあるかも。(それは違うか)
いずれにしても、この話を読んで、わたしが初めて黒人の人と会ったときのことを思い出してしまいました。そうか、黒人の人の掌は黒くないんだ....と妙なところに感心したものでした。さらにつまんない話ですが、黒人の新生児も、メラニン色素が発色していないのですよね。だから、赤いのです。赤ちゃんとはよくいったものだと、やはり初めて見たとき、けっこう心から感心した覚えが....。
さらに遡って、幼稚園児の頃、はじめて白人の人を見たとき、なんで、目がビー玉みたいなんだろう、ほんとに見えているのかな.....と実に素朴かつ強烈な疑問を感じたものです。その記憶があるぐらいだから、幼児にとってはかなり鮮烈な体験だったのでしょう。
むろん、白人や黒人の方が、アジア人を最初に見たときに感じる「素朴な疑問」もあるようです。大爆笑したのが、HAVATAMPAのキューバ公演のあと。
ある、個人的にとても親しいキューバの知識人の方が、こっそりに小声で「素朴な質問」。
「日本人の目のすごく細い人って、上とか下とかも見えているの?」
いやあ、すごい質問ですね。訊かれたわたしも、とっさに答えられなかったです。
そういえば、考えたことはないけど、どうなんだろう。
で、どうしたか。
HAVATAMPAのリーダーの方に率直に尋ねて、怒られました。
「そんなの、見えるに決まってるでしょ!」
はい。でも、ぎょろりとした目のラテン系の方たちよりは、明らかに上下の視界は狭いように感じるのですが.......。
まあ、それはともかく、戸別訪問の寄付依頼というのは、町内会などの出所がはっきりしている場合を除いて、いかなる名目(エチオピアの飢餓だの、アフガニスタンの孤児だの)であろうと大半は、本当にそういう国際協力に使われることはありません。というか、まともなNGO団体は絶対にそういうことをしません。
では、あの人たちは何なのか、というと、かなり怪しい団体だと思って、まず間違いありません。とくに、統一協会系が多いと言われています。
宗教団体でなくても、訪問販売や電話セールスには、あやしげなのが多いですね。
最近、特に「家(マンション)を買いませんか」というのが多いです。あとは、悪名高い塗装・リフォーム系。
「外国に邸宅を持っていて、日本は仮住まいなので」
というと、たいてい、そそくさと引き下がります。
(それを信じたというより、そういうことを言いだす人間とはかかわりたくない、という感じですね)
最近、あまり見かけないですが、(これは、住んでいる場所の立地にもよると思います。以前、新宿に住んでいたときは、入れ替わり立ち替わり、多かった!)異端視されているキリスト教系新興宗教の勧誘や寄付依頼、小冊子を買ってください系の依頼には、
「代わりにあなたも、是非、○旗を購読していただけませんか」
これ一発です。そそくさと帰っていただけます。
わたしって、ほんとうにいやなやつだな。
さて、先日(といっても、昨年末のことですが)、近所の八百屋で大安売りのピーマンの袋詰めを買いました。
で、その夜、炒め物にして仰天。
激辛!
はっきり言います。ピーマンではなく、チレ炒め、という感じ。
(チレというのは、メキシコの、ピーマンに似た唐辛子です)
シシトウガラシのたまにあるすごく辛いやつ、ぐらい辛い。
こんなピーマンあるかよ。
と、翌日、その八百屋に行ってみると、ピーマンの売り場の「ピーマン」の文字の下に、小さくマジックで「ピリ辛」と書いてあるではないか。ずるい! 昨日は書いてなかったぞ。
おそらく、購入者から苦情が出たので、書き添えたのでしょう。やるなあ、八百屋。
このピリ辛ピーマンができた原因ですが、昔、農業をやっている人に聞いたことがあるのですが、ピーマンの雌しべに唐辛子が受粉してしまうと、辛いピーマンが出来てしまうことがあるとか。だとすると、辛いものと辛くないものがあるはずです。
そこで、冷蔵庫のピーマンの端を切って味見してみると、たしかに、飛び上がるほど辛いのと、辛くないのがあるようです。で選り分けてみると、辛いのが3個。辛くないのが5個。
で、辛いのをどうするか。年末年始に激辛ピーマン食べたいとは思わないしなあ。
というわけで、冷蔵庫の整理も兼ねて、うろ覚えのメキシコ風ピクルスをつくってみることにしました。
PANDORA REPORTの常連である、我が悪友にして、天才作曲家のマルシアル・アレハンドロは、じつは、けっこうちゃんとしたお家の坊ちゃんでして(以前、高校時代のスーツをぴしっと着た写真を見て爆笑したことがある)、彼のママは、じつは、私の知る中では3本の指に入る、メキシコ家庭料理の名人なのであります。
彼のママの作る、メキシコ料理のフルコースは、ほんとうにそのへんの有名料理店など足元にも及ばない、まさに『赤い薔薇ソースの伝説』的料理。
あらゆる複雑なソースを、スパイスから混ぜてお作りになるのであります。
(で、マルシアルのママには、「いつでもうちでお料理を教えてあげるわ」といわれていますが、それはそれで、話が違う方向に行きそうなので、ときどきご馳走になるだけのここ数年なのですが.....苦笑)
そのママによく頂くのが、メキシコ風のピリ辛ピクルス。
これがもう絶品なのです。メキシコの食材店で売っている瓶詰めを以前はよく買っていたのですが、ママから頂くようになってから、市販のものが食べられなくなってしまいました。
その作り方を、以前、ちらっと聞いたことがある。
よし、駄目もとでチャレンジだ。
まず、冷蔵庫の中のにんじんを斜めに、5mm幅にスライス。玉ねぎをくし型切り。にんにくは皮を剥いてまるごと。赤と黄のパプリカを縦に6つ割り。カリフラワーを小房に分ける。
たしかママは、水で下茹でしないで、鍋にたっぷりのサラダオイルを入れ、低温の油で材料が柔らかくなるまで煮るのだとおっしゃっていたはず。で、やってみます。まず、堅いカリフラワーと玉ねぎとにんじんをいれ、少し柔らかくなってきたら、ピリ辛ピーマンとパプリカを入れる。
思ったより時間がかかりましたが、カリフラワーが柔らかくなったので、火を止め、ここに塩胡椒とハーブ、酢を加えます。野菜から水分が出て、油と混じって乳化しはじめているので、ここに酢を入れても、思ったほど分離せず混ざります。
そして、味の具合が良くなったらできあがり。
熱湯消毒した瓶に詰めます。
意外だったのが、油で煮たせいか、激辛だったピーマンを3個入れたのに、できあがったピクルスはほとんど辛くないのです。ううむ。これはちと残念。日本のピリ辛ではパワーが足りなかったのだな。残念。
でも、それなりに美味しくできました。
カリフラワーやにんにくの白、パブリカの赤と黄、にんじんのオレンジと見た目の色も綺麗で、トーストしたパンにも合うし、卵料理にも合う。もちろん、丸ごとのにんにくも臭みはまったくありません。
ちょうど遊びに来た友達に、酒のつまみ代わりに出したら、感動されてしまいました。
これはこれで、成功かな。
2年ほど前から、北千住に住んでいます。
大阪生まれの大阪育ちで、長じて中南米を渡り歩き(笑)、東京に拠点を移してからも、世田谷や新宿に住んでいたので、東京東部というのは初めての経験です。
が、暮らしてみると、東京の下町というのは、案外いいところです。
なにより、行き交う人たちが挨拶を交わすという習慣が、ごく自然に残っているのが快い。追い越すときには「失礼します」。追い越される側も「お先にどうぞ」。ちょっとぶつかれば「すみません」。
一昔前の日本ではごく当たり前で、たしかに私たちも親から躾けられていたはずなのに、いつの間にか町から消えてしまっている言葉が、ここではまだまだ当然のものとして生きています。
八百屋の店先で、見慣れない野菜を見ていると、知らないお婆ちゃんに「これはさっと茹でて、芥子和えにすると美味しいのよ。栄養があるから買いなさい」と買わされる(笑)こともあれば、アボカドを選んでいると、知らないおばさんに「これ、どうやって食べるの」と尋ねられたり。
(ここで、アボカドの旨い食べ方。
いろいろありますが、もっとも簡単なのは、薄切りにして、ハム・トマトと一緒にサンドイッチにするとおいしいです。
また、フォークで潰してレモン汁をかけ、トマト・生玉ねぎのみじん切り・塩・胡椒で和えたサラダもおいしいです
皿にレタスを敷いて、皮付きのまま半割にしたアボカドを置き、種を取った穴に、むき海老を茹でてマヨネーズとケチャップで和えたものを詰めると、簡単でおしゃれなオードブルにもなります)
下町といっても、江戸時代から続く神田・浅草や谷中・深川とは違って、北千住は、長らく北への宿場町で、下町としては昭和になってから形成されています。だから、北千住の地元の人といっても、三代ぐらい前に、東北方面から上京してきたという家が多い。
その証拠に、お風呂屋さんに行くと、お婆さん達が東北弁で喋っておられるので、「ここは何処? 私は誰?」状態になることが。
さて、ここでお風呂屋さん。北千住の名物のひとつです。
もともとあまり豊かな地域ではなく、風呂なしアパートが最近まで多かった名残でしょう。
うちの近所だけでも、五件ほどの銭湯がしのぎを削っています。
競争が激しいせいか、健康ランドも顔負けの設備をもっているところが多い。
サウナは当たり前。お湯の中で寝たまま各種マッサージができるのとか、ハーブ風呂、電気風呂など。これらが実に気持ちいいのであります。
というわけで、うちにはお風呂はあるのですが、疲れが溜まったときなどには銭湯に行く今日この頃です。
疲れが溜まっているというほどではなくても、飛行機などの旅のあとなど、とっても体がほぐれます。 でも、湯船につかって、ああ気持ちいいと思う私って、やっぱり日本人かも。
あけましておめでとうございます。
七草粥を食べるころになって、この文章を掲載するのもなんですが、大阪の実家に戻っていて、ホームページの更新ができなかったので、お許しを。
昨年末に、BBS閉鎖を考えていると書いたところ、その当のBBSで大反響があって、正直喜んでいます。読んでくれている人がいたんだなあ。
ということで、閉鎖はやめることにします。
また、閑古鳥が鳴くことがあるかもしれないけれど、そのときにまた考えましょう。
さて、八木の新年は、実家で上げ膳据え膳でした。
こういうときぐらい親孝行しなくちゃと思うのだけれど、何年も実家に暮らしていないと、(しかもその間にリフォームされたりもしていて)、もはや、勝手知らない他人の家です。求める食器が何処にあるかわからないし、箸がどこにしまってあるのかもわからない。うろうろとそのへんを開け閉てしていると、親に「かえって邪魔だから座っていて」といわれる始末。
まあ、正月用の蒲鉾と、自分で漬けた塩数の子、余った卵で作ったパウンドケーキなどを手土産で持っていたから許してもらいましょう。
新年5日には、大阪の友人たち(去年11月に共演した無国籍音楽バンド、TAOのみなさんとプロデューサーの岸田さん)の、箕面の山寺での新年宴会に入れてもらいました。
なんで、無国籍バンドの新年会が箕面の山寺かといいますと、ベースの岩田晶さんが昨年秋から、箕面奥地の住職さんのいない小さなお寺を自治体から借りて、そこにお住まいだからです。でも、岩田さんのルックスも、いかにも山寺の和尚さん.....(失礼)。
家の前には、保護樹のでかい杉があり、岩田さんが掃除をするまではすごい状態だったというお家の脇の本堂には、朽ちてはいるものの由緒ありげな仏像も。
(何でも鑑定団もの??)
お寺の裏山には、瓜坊や鹿も出るという、なかなか野趣のあるところです。
この日はまた、とんでもなく寒い日で、裏山に行く気力を失ってしまいましたが、また、夏場にでもお伺いしたいところです。
むろん、正月早々、猪を追いかけるというようなことはなく、地元の水菜や白菜と、大阪市内で調達した魚介類での鍋物です。
いや、いろいろはいっていましたね。蟹、鯛の頭、牡蠣、鮟鱇、カンパチ、鮭、鴨つみれ、その他。なんか、ものすごくコクのある出汁が出た出た。締めは、うどんに蘊蓄のある岸田くんの持ち込みである名店の讃岐うどんです。
讃岐うどんは、去年から東京でもブームが始まっていますが、ほんとにおいしい。
酒は、蔵主直送限定品の剣菱と、銘柄を忘れましたがとってもおいしい赤ワインでした。
皆様はいかがお過ごしだったでしょうか。
今年、良い年になると良いですね。