八木啓代のひとりごと 2002年度

 (12月31日 記)

 12月、バタバタしている間に、あっという間に年末になってしまいました。
 このMonologueもあまり更新もできずに、お恥ずかしい限りです。
 その原因は、単に物理的に忙しかったという問題よりも、精神的な問題であるような気がしています。
 もともと、Monologueは、文字通りのわたしのモノローグです。そして、BBSの方は、これに対して軽いお喋り、わたしからの一方通行ではなく交流の場を作ることで、エネルギーを得たかったのですが、現実には一度挨拶をしたあとは来ていただけない方が多くて、結局、ここも一方通行の場になってしまったというのは大きな計算違いでした。
 わたしはもともと器用なたちではないので、同じホームページの中で、自分から発信しなければならない場が2カ所もできてしまったということで、どちらに何を書こうかと考えていて、けっきょく、書けなくなってしまったという感じです。
 まあ、BBSのほうを、皆さんが気軽にお喋りを楽しもうと思えるような魅力のある場にできなかったのはわたしの力不足ということでしょう。
 ということで、BBSを閉鎖するべきかどうかを考えています。
 とりあえず、もう少しだけ様子を見てみましょう。

 とにもかくにも、不況と戦争の気配の中でも、年が終わろうとしています。

 わたしにとっては、ひさびさに新しい本が出なかった年。(書かなかったというのがひとつ。決まっていたはずの企画が潰れたので目標を失ったというのもひとつ)
 その点では不作でしたが、その一方で、新しいCDのツアーを行いました。渋谷ジァンジァンの閉鎖以来、絶えて久しかった弾き語りもふたたび始め、新しい空間も開拓。

 春には卵巣嚢腫が見つかって手術もいたしました。受けてみるものです、定期検診。
手術はうっとうしくなかったといえば嘘になりますが、最新の医学で、思ったほどの術後の痛みも大変さも少なくて、医学の進歩に驚くばかり。じつをいうと、こういうことがあると、身近の意外な人が、思わぬ気遣いや思いやりを見せてくれたりして、嬉しい驚きを感じることがあります。

 夏は、巻き込まれて、近所のマンション紛争の助っ人をやっていました。(苦笑)
 土建行政という言葉どおり、日本の建築基準法がいかに業者有利になっているかを思い知り、かなりムカつきました。
 ひさびさに、自分に興味があること以外の「勉強」をやりました。
 かなり時間と手間をとられたけれど、これはこれで、血肉にはなったでしょう。結論からいうと、楽しくないことはなかったし(笑)
 で、マンション紛争解決のためのボランティアサイトの手伝いをやったりもしていました。よかったら、見てやってください。

 そういえば、秋から冬にかけては、他人のプロジェクトの手伝いが多かったですね。
 ちょうど、この12月始めに、このサイトの写真を撮ってくださっている写真家の岡部好氏の写真集『清志郎』が出たところです。これが、この不況下とは思えない豪華な装丁の本。太っ腹だぞ、情報センター出版局!
 売れ行きも好調なようで、続いて別の写真集も出るとか出ないとか。写真展をやるとかやらないとか。
 その他、タンゴのプロジェクトなど、来年にかけて、様々なことがありそうです。
 どうぞ皆様も、よいお年を!


 (12月26日 記)

 偽善というのは、ダブル・スタンダードを他人に押しつけることであるというようなことを言ったのは、たしかノーム・チョムスキーだったと思います。要するに、自分がやるのは良いけれど、同じことを他人がやると批判する、これがダブル・スタンダード。
 これが偽善の正しい定義であるとするならば、偽善という言葉は、なんと頻繁に誤って使われていることでしょうか。特にいまの日本では。
 なにか「いいことをする」ことが「偽善」だといわれる。なぜなら、偽善という言葉を、「善人ぶる」ことだと思っている人が多いからです。
「他人にいい人だと思われたいのか」
 ここには、その「いいこと」をやったひとに対する、明確な悪意がある。
 しかし、善人ぶることのなにが悪いのかな。
 人は神でない以上、かならず欠点はあります。欠点はあるし過ちも犯す人間が、「いいこと」もやるから愛嬌がある。それを「善人ぶっている」と批判する人は、欠点があり過ちも犯すくせに、愛嬌もないやつというわけだ。
 しかし、残念ながら、いまの日本には、そういう愛嬌のないやつが偉そうにしているケースが多いようですね。
 話立ち戻って、ダブル・スタンダード。自分がやるのは良いけれど、同じことを他人がやると批判する。
 いま、ブッシュ政権がやろうとしていること、そのものですね。ある武器を自分が持つのは「正義」だが、他人が持つのは「悪」。
 この偽善の帝国は、どこにいくのだろうか。


 (10月26日 記)

 紙に表と裏があるように、物事には常に二面性がある。
 こちらの言い分はそれでいいとして、相手の言い分というものも常に存在する。
 一番ラクなのは、こちらの言い分だけを一方的に主張して、相手の言い分に関しては「身勝手」「屁理屈」「不可能」あるいは「間違い」と切り捨てることだ。
 相手が自分を殴るのは犯罪だが、自分が相手を殴るのは正義。いいですね。これで、ストレスのない人生が送れる。そして、あなたが力に任せてそれを続けていれば、多くの底知れない反感と恨みを買うでしょう。
 これが、いまのテロ多発の原因。

 北朝鮮問題も、同じことが言える。
 北朝鮮の拉致問題はまったくもってひどい話で、テロ以外の何者でもないのは確かだが、しかし、かつて日本がアジアに対してやったことは、さんざんゴネた挙げ句に口先でちょっと謝っただけでチャラにして、相手が悪いことして謝っている場合は、とことん口汚く非難するというのは、都合は良すぎる。強制連行を最初にやったのは、日本なんだからさ。
 と書くと、また、右寄りの方から、抗議のメールが来るかな。

 だからしつこく書いておくが、わたしは、北朝鮮の体制を支持していない。はっきりいうと、嫌いだ。
 しかし、善の帝国がないように、悪の帝国だって存在しないのだ。
 いまの基準で見れば、ほれ、あの大日本帝国なんて、いまの北朝鮮をはるかに上回る恐ろしさではないか。なんたって、憲兵が思想犯を徹底弾圧し、拷問は当たり前。小国民は教育勅語を暗唱させられて、洗脳教育を受け、御真影を粗末に扱うなんてとんでもない。それだけじゃない。八紘一宇のスローガンのもと、植民地の人々を殺傷することにためらいはなく、爆弾かかえての自爆テロ=特攻隊までが、美化されまくっていたのだ。
 事実を認めることは、自虐史観などではない。
 つまり、この日本も、わずか60年前はそういう国で、その時代を生きていた人たちは、与党政治家を含め、まだ、たくさん生き残っているのだということをほったらかして、北朝鮮問題を語ってはいけないのだ。
 戦前、戦中を直接知らない世代でも、その時代をテーマにした映画やドラマを見たことがあるだろう。むろん、戦後に作られた作品は、大日本帝国を全面美化しているわけはないが、それでも、日本製のドラマなら、当時の政府を批判的に描くことはあっても、あの当時の日本を「悪の帝国」そのものとしては描いてはいないはずだ。
 なぜなら、その中でも、人々は生き、暮らしていたこと。その人達の大多数は、一人一人は、いわゆる「洗脳された悪人」などではけっしてなく、それがわたしたちの祖母や祖父や両親やその周囲の人々であったことを、わたしたち自身がよく知っているからだ。
 逆に、当時、敵国だったアメリカでは、文字通り、日本を「悪の帝国」として描いた映画があるのは、むしろ当然だろう。
 その経験を踏まえて、北朝鮮を見ることを、どうしてしないのだろうか。
 あの国は、60年前の軍国日本とスターリン主義をカリカチュアにしたようなところがあるのではないかと。

 この感想が、まさしく、わたしが北朝鮮の現政権を支持しない理由であるが、同時に、簡単に「悪の帝国」呼ばわりしない理由でもある。
 そう思って、北朝鮮側の対応や拉致された方々を見たら、別の見方ができるのではないか。
 帰国した拉致日本人の方たちは、いったん北朝鮮に戻ったうえで、家族と相談してどちらに住むかを選び、どちらを選ぶにしても、家族共々に、ふたつの国を自由に動けるようにしてあげられるような交渉を、政府が責任を持って行えばいい。拉致された人々の20年以上の生活を全否定し、問答無用で、日本語が話せないかもしれない家族もろとも、「いますぐ全員を問答無用で日本に帰国させ」、「北朝鮮にはもう帰さない」というのは、ちょっと違うのではないかなという気がするのだ。
 想像してみればいい。残された家族にすれば、両親が急に日本に行ったまま帰ってこない状態なのだ。その状態で、自分も仕事も学業もすべてを捨てて、二度と帰らない覚悟で行ったことも見たこともない国に行けと言われるのだ。彼らが拒否したとしても、それは洗脳のせいではなくて、当然の反応だろう。 横井めぐみさんの忘れ形見であるキム・ヘギョンちゃんの涙のインタビューが、洗脳の結果だのむりやり言わされているのだと、ワイドショーはかまびすしいが、いままでの経緯を見れば、日本語ができなくて、優秀で一流大学を目指している素直な『軍国少女』が、「日本に下手に行けば、母親の身代わりとして、二度と帰してもらえない可能性が高い。そうなれば父親にも友達にも一生会えなくなるかもしれない」と思うのが、むしろ自然なのではないかと、わたしは思うのだ。そして、それは洗脳というのとはちょっと違う。

 反日教育、というが、中国や韓国や北朝鮮で、まったくの根も葉もない出鱈目が教えられているわけではない。大日本帝国の軍の残虐行為も、強制連行も、特高も、事実存在したことだ。そして、それをやったのは、日本であることもまた事実である以上、少女の恐怖を、「洗脳」とか「教育のせい」で片づけるのは、また、危険な考え方だろう。もちろんそれが、いちばんストレスがなくて、「ラク」ではあるのだけどね。


 (10月21日 記)

 19日の感想をUPしたとたんに、政府が、拉致被害者の生活を保障する旨、明言いたしました。これについては、ある程度評価。ただし、そんなこと、最初に言えよ、という感じ。

 ところで、最近よく出てくる「亡命者の談話」について。
 亡命者、および、脱出者の談話や手記は、たいていリアリティを持って語られ、センセーショナルに報道されますが、ときに落とし穴がある場合もあります。

 つまり、「作られた体験談」もある場合があるということです。これはどういうことかというと、亡命者も人間ですから、食べていかなくてはなりません。
 で、その食べている「飯の種」がなにか、というのが問題になるのです。「亡命」そのものを、100%「飯の種」にしている、あるいは、その人が、特定の政治的団体(人権団体ではない、右派あるいは左派のイデオロギーがかなり前面に出ている団体、民族団体・利益団体など)の庇護を受けている場合、その人の言動は、100%信じないほうがいいというのも、生活の知恵のひとつです。こういうふうに書くと、なぜかわかりますよね。
 とても有名な話では、湾岸戦争の時に、「イラク兵が病院で、保育器の赤ん坊を引きずり出して殺していた」という有名な「いたいけな少女の恐怖の目撃談」があり、全世界に大きな衝撃を与えましたが、この少女、じつは、クウェート外交官の娘で、そのような目撃が出来るはずがない環境にいたことがあとで暴露されました。むろん、少女のアリバイに誰かが偶然気づいたというより、彼女が、クウェート大使館関係者であるということが発覚したことから、証言の信憑性が疑われ、調べてみたらやっぱりね、ということになったということです。

 もっと、八木らしい話をしましょうか。
 たとえば、マイアミには、「キューバ・アメリカ財団」というその筋では有名な右翼団体があります。亡命キューバ人を会員に、カストロ政権を転覆させるためにあらゆるロビー活動をはじめ、テロも辞さないという活動をしているグループです。
 この団体が資金を出して、90年代の初め(社会主義圏が崩壊し、キューバが孤立し、経済危機に陥っていたときです)、ドキュメンタリー映画が作られました。いかにキューバ国内では自由がなく、恐怖政治が行われ、また、政治犯に拷問が日常茶飯事に行われているかという、凄い内容です。いやあ、これがほんとに凄いんだ。キューバは北朝鮮をはるかに上回る恐るべき国だったんですねぇ〜!
 で、またこういう団体はお金は持ってるので、それなりの宣伝もされ、人の良い日本の山形国際ドキュメンタリー映画祭はグランプリなど与えています。
 それから、まだ10年しかたっていないし、だいたい政権は変わっていないってのに、いまやキューバは、トレンディな「楽園スポット」です。大爆笑。
 あの映画はなんだったんだ。という検証を、なぜ誰もやらないんだろうね。 
(あの映画の内容が事実でなかったことは、当時、キューバに行ったことがなくても、アムネスティや国連人権委員会の報告書を見ればわかったことです)

 あのころの、キューババッシングブームの中で、名前は出さないけど、八木の親しい友人の某有名音楽家が、海外公演の時に「その筋の人」から接触されたという話を、そのご当人から聞いたこともあります。
 なんでも、「破格の契約金付きでの大レコード会社からの世界的売り出しで、君は間違いなく国際的大スター」を条件に、「派手に亡命して、以後、反カストロ宣伝活動に加わらないか」というもの。
 で、音楽家にとっては、世界的に活躍するというのは夢ですから、そいつも「正直言って、一晩はちょっと真剣に考えた」(それが、私を信じて打ち明けてくれた本人の名前を出さない理由だ)、けど、「やっぱり自分の良心に反するから」という理由で、乗らなかったんだそうだ。まあ、新婚の奥さんがいたとかいう理由もあっただろうけどね。

 ちなみに、ちょうどそのころ、アルトゥーロ・サンドバルという、それまでキューバ共産党員で、なにかってぇと共産党万歳みたいな優等生発言をするんで、業界でも「インタビューしてて一番つまんねえ奴」と評判だったトランペッターが、いきなり亡命して、100万ドルの契約金でソニーと世界契約し、「いままでの自分には表現の自由がなかった」だの「キューバは恐怖政治」とか言い出した事件がありました。まあ、運をつかむためならなんでもやるという変わり身の早さも、才能のウチでしょう。サンドバルは、これで世界でCD売りまくり(タイトルも、『自由への飛翔』と笑わせてくれる)、有名ジャズフェスに参加しまくって知名度を作ったおかげで、いまでも、それなりのステイタスを得ています。
 一方で、キューバのモデル業界で、人気が落ちて売れなくなった「自称カストロの娘」さんが、マイアミに亡命して、反カストロ宣伝活動をはじめたのもこの頃。あの人、一時は、世界中のテレビに出まくっていました(で、わたしはそれを見ながら、「たしかにモデルとしては、もう引退するしかないルックスだなあ」と思っていた)が、いまはどうしているんでしょうね。

 むろん、ハズした人もいます。
 このサンドバルの「簡単でおいしい」大ブレイクに続いて、アルビータ・ロドリゲスという泣かず飛ばずだった女性民謡歌手が、マイアミで、やはりキューバ・アメリカ財団の庇護のもと、エミリオ・エステファン(マイアミ・サウンド・マシーンのグロリア・エステファンの夫というとわかりやすい)のプロデュースで、サルサ歌手として派手に売り出してもらって、それなりに売れたということもあり、一時期、キューバの音楽業界では、「キューバでいよいよ芽が出なかったら、それはキューバの体制のせい。だから、マイアミに鞍替えしたら、派手に売り出してもらえる可能性有り」という空気ができたのは、じつは事実。
 で、何人か同じことをやりました。だいたい、メキシコあたりに出て、第三国経由でマイアミに行くっていうの。
 で、あたりまえだけど、そういうのが何人も続くと、どうなるか。みんな売り出してもらえるわけじゃないからねえ。某マイアミ在住プエルトリコ人ジャズ・ミュージシャン(これも、業界じゃ知られた人なので、名前は秘す)に、
「いま、マイアミじゃ、勘違いしてキューバを出てきたけど、売り出してもらうどころか、定員オーバーで、チンケなバーでキューバ民謡のスタンダード演って日銭稼ぐしかないキューバ人が、掃いて捨てるほどいるよ。ほんとバカだよな、あいつら」
といわれる羽目に。

 そして、トドメは、キューバブームの到来。
 ジャズのゴンサロ・ルバルカーバのブレイクから雲行きが変わって、けっこう気合いの入ったキューバ音楽ブームがヨーロッパで始まり、ついには、ブエナビスタの成功も前後して、アメリカでもキューバ音楽ブームが到来。それも「キューバから来たキューバ人」の演奏がもてはやされて、チュチョ・バルデスやアダルベルト・アルバレス、ロス・バンバンが大人気。さらには、パブロ・ミラネスが堂々とニューヨークで超反米メッセージを歌うコンサートの数千人分のチケットが即日ソールドアウト.....なんてことになっちまうと、中途半端に国を出たやつは、思いっきり蚊帳の外に。
 フリオ・イグレシアスのマネジメントがバックアップして大売り出しをしてくれることになっていたはずの(と、大きな口を叩き、私に、逆恨みとしか言いようがないシルビオやパブロの悪口を言いまくってくれた)ドナート・ポベダ君、キューバブームの到来が、もう2年遅かったら、それなりに才能もあり、なにより美形でもあったきみは、たしかに国際的大スターになっていたかもしれないけど、今、どこでなにをしているのかな。風の噂では、いまでは、キューバ人であることすら隠して、田舎をドサ回りしてたとかいうけど。

 で、今日の結論。
 人間は簡単に嘘をつけるということ。
 あるいは嘘をついているつもりはなくても、ある環境で恵まれない立場にいる人は、その自分の不運を「環境のせい」や「他人のせい」にするのが、とても楽であるということ。
 証言系の報道の公正さを信じるには、証言者の経済的背景を知る必要があるということ。


 (10月19日 記)

 今日、商店街を歩いていたら、隣り合った小さなお店のおばちゃんたち同士のお喋りが耳に入った。
「不況ねえ」
「ほんとに、うちも厳しいわ.....」
(中略)
「いっそ、北朝鮮に拉致してもらえたらねえ」
「優遇してもらえるらしいからねえ」

 ホームレスになるよりは三食昼寝付きでずっといいと、わざと刑務所に入る老人の話は聞いたことがあるが、たしかに、北朝鮮で暮らすのも、考えようによっては、ありかもしれない。
 この不況下、口には出さないが、じつは、案外そう思っている人も少なくなかったりして。

 そこで思い出すが、かつて中国残留孤児の方たちが最初に帰国することになったときも、感動的な大騒ぎだったような記憶がある。そして、そういった人たちの数が増えるにつれ、しばらくして、彼らとくにともに来日した家族が、時として、日本にうまく馴染めないケースが報道されるようになった。この不況下、いまはもっと大変だろう。あの人たちは、いまどうなっているのだろうか。

 北朝鮮で、20年以上を過ごした人たち。日本では、ある程度、浦島太郎状態だろう。家族や郷里の人たちも、家族ぐるみの帰国を決意してもらうためにも、大歓迎するだろう。日本がいかに良い国かについての説得があるだろう。
 しかし、その熱が冷めたあと、果たして誰がどこまで面倒を見るのだろうか。
 むろん、拉致された方々は10人足らずだ。いまの盛り上がりから見ても、国が補助金なり年金を出すことを約束することはそう難しくないだろう。
 しかし、とわたしは思う。
 肉親の方の大歓迎に甘えていないで、政府がまず、帰国の場合、家族を含めて日本は、彼らをどう扱うかという指針を出すべきだろう。
      北朝鮮=独裁、貧乏、金正日を称える人は洗脳されている
      日本=豊か、自由
 という図式は週刊誌的にはわかりやすいが、それで人間が食べていけるわけではない。少なくとも、彼らは、拉致という非常識な手段で、意志に反して暮らすことになったとはいえ、北朝鮮においては、それなりに優遇されてきた人たちなのだ。
 帰らなければ良かった、と彼らが、親族知人の歓迎熱も冷め果てた頃に、思うことがないように。

 ところで、帰国した人たちについて。
 日本語が流暢だなというのが、第一印象。いくら母国語でも、使わなければ言葉は錆びつく。ちょっとした単語が口からでなくて、詰まったりするのだ。
 それがないところをみると、おそらく、彼らは北朝鮮で、つねに日本語を使う環境にいたのだろう。
 そういう意味では、「周囲も日本人であることを知らなかった」というのはちょっと眉唾かも。まあ、扉が開けば、いずれ少しづつわかってくることですが。


 (10月10日 記)

 今日はきれいな秋晴れで、久しぶりの洗濯日和。
 ここで、たまには私も、生活に役立つネタをご紹介しましょう。

 布団カバーやシーツが黄ばんできたり、白いTシャツにシミが付いて、普通に洗ったり漂泊しても、いまひとつきれいにならないとき。
 洗濯物の大きさに応じて、バケツまたは洗面器に、酸素系漂白剤と洗濯洗剤を入れ、そのうえから、繊維に染み渡るぐらい程度の量の熱いお湯をぶっかけます。
 熱いお湯というのがミソ。熱湯でもいいぐらいです。
 漂白剤の説明書に、「熱湯で使わないでください」とか書いてあっても無視します(笑)
(ただし、デリケートな布地は、クリーニングに出してください)
 プラスチックのバケツや洗面器の耐熱温度は、80度以下ではありますが、バケツに直接かけないで、布にかけるので、お湯が繊維に浸透している間に、温度がほどよく下がりますから、バケツが溶けるようなことはありません。
 そのまま30分ほどおいてから、そのまま洗濯します。このとき、漬け込み液も捨てないで、そのまま洗濯に使います。
 これだけで、相当綺麗になります。漂白剤の原液をつけるより効きます。

 時間が経って浮いてきた汗染みとか、夏の間、押入にしまいっぱなしになっていた布団を、最近出してみたら、カバーを洗っておいたはずなのに、なんか薄汚い汗染みの黄ばみが浮いていて、なんか不潔な感じ。普通に洗っても落ちないので、捨てるしかないかも......というような汚れ(体験者談)が、綺麗にまっしろに。わりと時間が経った黄ばみでもかなり綺麗になります。
 醤油を思い切り飛ばしたTシャツとかも、家の中で着られるぐらいには復活します。(ただし、しみは、できるだけ最初に落としましょう。下にタオルを敷いて、石鹸水か台所洗剤を数滴落として、上からとんとん叩きます。これでけっこう綺麗になります)

 それでも駄目な場合。
 洗うものが白いものだったら、洗剤と塩素系漂白剤と重曹少々、そして、熱湯で5〜10分漬け込みです。ただし、色物やスパンコールなどがついているものは、ぜったい漬けないように。

 むろん、絹とかウール、レーヨンなどの繊維やおしゃれ着は、プロに任せた方が安全です。それも、受付だけやっている宅配便系のクリーニング屋さんより、その店できちんと仕事しているところのほうが安全。

 それから掃除の裏技。
 といっても知っている人は知っているかもしれません。
 洗剤で落ちにくい油汚れは、柑橘系の皮でこすると、嘘みたいに落ちます。皮の内側の白いほうではなくて、外側のオレンジ色や黄色の方です。
 レンジの側に置いてある調味料の蓋などは、しばらく置くと気化した油がついてべとべとした感じになるうえ、洗っても乾きにくいので困りますが、柑橘の皮でさっと拭くだけで、問題解決です。

 レンジ回りのぎとぎとになった汚れやこびりついた汚れの場合は、皮に重曹(スーパーで、マメの灰汁抜き用に売っている普通の重曹です)をちょっとつけて軽くこすると、冗談みたいにぽろぽろと油汚れがはがれます。
 油汚れが消しゴムのカスのようにぽろぽろ浮いてくるので、乾いた雑巾か、ティッシュなどで拭き取るだけです。
 重曹がないときは、小麦粉でも代用できますが、効果は落ちます。
 このやり方のマンボなところは、柑橘皮も重曹(アルカセルツァーという米国やメキシコではポピュラーな胃薬の主原料)も、食品系で、人体には無害なので、手も荒れないし、二度拭きも不要。しかも、お掃除後は、柑橘系のアロマオイルを撒いたような、とってもいい香り。しかも、いろいろな洗剤を揃える必要がないので、安上がりでもあります。

 凸凹が多くて皮でこすりにくいようなものや、オイルポットなどは、洗剤と重曹を溶かしたお湯に漬け込んでおくと、これまた、冗談みたいにきれいになります。

 また、ガラスは、水で濡らした新聞紙で拭くと、これも洗剤いらずで、あれよあれよとぴかぴかになります。ただし、他の物を拭くと黒いインクがつくのでご注意。ガラスだけにしておきましょう。
 冬の寒い盛りより、今の気候の良い時期に、ちょっと面倒な掃除をしておくと、年末がとっても楽ちんです。


 (10月2日 記)

 北朝鮮の拉致問題で、ここ数日、マスコミはその話題づくしだ。
 と書いてしまった以上、わたしの意見も書くべきだろうな。

 わたしは小泉首相が嫌いだ。まったく信用していないし、評価もしていない。
 しかしながら、(経済問題の批判を逸らすためだとしても)今回の訪朝は、高く評価する。小泉、よくやった。
 なのに、誰も誉めてくれないんである。
 そう、拉致された日本人のうち生存者が少なかったという理由で。
 で、マスコミこぞって、被害者家族の方々と一緒に、「だから北朝鮮は信用できない」の大合唱である。

 ちょっと待ってくれ。
 ご家族の方の気持ちは分かる。我が子が死んだとは、ぜったいに信じたくないという親心は、不滅だ。
 しかし、いまの状況はちょっと違うのではないか、わたしは思うのだ。

 問題は、なにをどうしたいのか、だ。
 外交とは、政治とはそういうものである。

 冷酷非情になれと言っているのではない。国交回復のためなら少々のことはなどと言っているのではない。
 かなりセンセーショナルに感情的な報道をしているマスコミは、なにをどうしたいのか、という視点があるのか、ということだ。そうでなければ、多摩川にたまちゃんがあらわれました、きゃあ、かわいい、と騒いでいるのと、好悪の違いはあっても、単にその場の感情次第という点で、レベルは変わらない。

 では、八木はどう考えるのか。
 あの北朝鮮が、拉致を認めたのだ。いままで否定し続けていた拉致を認め、しかも正式に謝罪した。たとえリップサービスとしても、誠意を持って対応したいとまで、一応謙虚に言っているのだ。
 このコペルニクス的転換は、とりあえず、きちんと認めるべきである。
 小泉訪朝の前に、これを予測できなかった北朝鮮ウォッチャーと称する人たちは、とりわけそれをきっちりやるべきであって、ハズれた腹いせに、なにがなんでも北朝鮮叩きというのは、みっともない。 

 そのうえで、この転換は何故起こったのかを、感情論ではなく、冷静に分析することだ。
 おそらくは、飢餓問題のせいだろう。経済は、孤立状態で遣っていけないほど、すでに悪化しているのだ。アフガニスタンに続いて、イラクも攻撃しようとしている米国の強硬姿勢も、理由のひとつではあるだろう。
 では、北朝鮮が求めているのは何かは明白である。
 日本の経済および外交面での援助だ。
 で、ここで、感情論的に「拉致の生存者が少ないのはきっと陰謀だから、そのような国とは国交回復するべきではない」とか「援助をするな」と騒ぐのは、メリットがあるだろうか?
 それは関係をこじらせ、ひいては、北朝鮮の国民を苦しめることにしかならない。

 扉を開けかけた国に対しては、その扉をもっと開けるよう、こちらは努力するべきなのである。扉が開き、交流が増えれば、いろいろなことがもっとわかってくる。
 そして、数年が過ぎるうちに、拉致の真相も、それがどこまでが真実で、どこまでが作り話なのかが、わかってくるだろう。
 最終的には、歴史がすべてを判断する。

 そして、すべてを判断されては困る人たちだけが、なんとかして扉を閉ざそうとするのである。


 (9月24日 記)

 柳美里の『石に泳ぐ魚』、最高裁の判決が出た。
 答えは敗訴。慚愧に耐えないと彼女は語る。
 おいおい。「慚愧に耐えない」って、深く恥じ入ることではなかったっけ???
と辞書で調べたら、やはりそうだった。

 >>ざんき 【×慙×愧】
>>((名・ス自))恥じ入ること。「—に堪えない」
>>[岩波国語辞典第五版]

 でも彼女は、前後の文脈からすると、明らかに自分のやったことを恥じているのではなくて、敗訴して非常に心外だという意味で使っている模様。
 こうやって日本語は乱れていくのだろう。しかし、作家である人が、明らかに誤用してどうするんだ?
 という突っ込みはさておいて。

 彼女は、身体に重大な障害を負った知人の不幸をネタにし、その知人が信頼関係のうえで、柳美里に語った極めて個人的なことまで公表した。本人の抗議にも誠意を持って対応しなかった。そして訴えられた。
 それって、訴えられるのが当然だろう。
 そのどこが表現の自由をめぐってことなのか。表現の自由というのは、国家権力とか、大企業とか、そういう「圧倒的に強い存在」に立ち向かうためのものであって、弱い者虐めをするためのものではない。
 相手が有名作家だったら、公人でもない人間がプライバシーを暴かれても、泣き寝入りするべきなのだろうか?
 柳美里の語るような表現の自由が許されるなら、権力が庶民を限りなく弾圧することだってできるのである。
 田口ランディの盗作事件といい、それにしても、作家のモラルはどこにいくのだろうか。書き手としてのプライドというものはどこにあるのだろうか。売れたらなにをやっても良いのだろうか。
 かつて、作家は、そういった価値観から斜に構えていたはずである。でも、いまはそうではない。売るためなら、なんだってやる。ひとつ受ければ、その路線で突き進む。そういう時代なのかもしれない。
 たしかに、丹念に取材され調べられた作品よりも、ゴーストライターが書いたタレントの暴露本が、圧倒的に売れる時代なのだ。
 公立図書館にすら文学全集が見あたらず、ハリウッド映画やゲームのノベライズ本が並んでいる時代なのだ。

 でも、だからといって、言葉のすり替えに騙されてはいけない。
 表現の自由というのは、かつて命を懸けて護った人々がいる大事な言葉なのだ。安っぽい使い方で汚してもらいたくはない。
 そういう意味で、この言葉も使ってもらいたかった。
「このような事が起こるのは、慚愧に耐えない」


 (9月24日 記)

 じつは、9月11日に、このモノローグのために、とっても長い文章を書いたら、書き終えたとたんにパソコンがフリーズして、文章は消えてしまった。
 なんてこったい。
 これって、パソコン初心者がよく泣かされるパターンである。で、パソコン慣れしている人間は、こまめにバックアップしながら文章を書くので、あまり被害が大きくならないはず......である。
 しかし、また、魔がさすというのも人間なのだ。(涙)

 あまりの脱力感に、しばらく休んでしまいましたが、また、気を取り直して復活です。


 (9月3日 記)

 立て続けに訃報。
 メキシコにおける、わが親しい友人の一人だった、音楽研究家のアントニオ・セディージョが、肝臓癌で亡くなった。
 丸っこい身体に、キューバ人のように縮れた髪と、繊細な魂。
 その姿どおり、キューバ音楽とメキシコのカリブ海沿岸音楽を専門としていたが、微塵も権威主義的なところはなく、本当に音楽が好きでたまらない人だった。
 つねに謙虚で、にこにこしていて、物静かな人だったが、音楽が流れると、いつも、子供が、大好きな玩具を見つけたときのように目を輝かせていた。サロンでは、その体躯からは信じられないほど、優雅なステップを見せてくれた。
 19世紀キューバで一世を風靡したダンス音楽に、ダンソンというものがある。前世紀風の優雅さを保ちつつ、いわゆる、それまでのキューバ音楽会の主流だった、ヨーロッパのサロンクラシックからキューバのポピュラー音楽(つまりラテン)の橋渡しとなる。ジャズにおける、ラグタイムのような音楽だ。
 そのダンソンの研究においては、キューバとメキシコ両国のうちでも、第一人者だった。コリマ大学のプロジェクトで、彼の労作の一部の翻訳作業を手伝ったこともある。(この経験は、そのときは「断り切れずしょうがない」と、けっこう義理でやっていたのだが、後に、拙著『キューバ音楽』執筆の時にめちゃくちゃ役立った。情けは人のためならず)
 彼は前大統領の実の叔父でもあった。メキシコという国において、大統領の地位は絶大である。任期中は、一族郎党がタカるのが普通だし、それが当然とされている。しかし、トニオは、そのようなことにはいっさいの興味を示さず、話題にすることすら好まず、ずっと、グアダルーペ寺院のすぐそばのこぢんまりした(しかし、彼が趣味で集めた魅力的なコレクションの数々と、たまに友達と宴会をやるときには理想的なバーカウンターのある)家で、家族と静かに暮らしていた。毎週水曜日には、サロン・リビエラでダンソンを踊っていた。19世紀風の正当派の優雅なダンソンはどう踊るのか、わたしは彼に教わった。
 2月にメキシコに滞在していたときに、わたしに会いに生放送中のラジオ局にやってきてくれた。そのまま家まで連れて行って、あの素敵なバーカウンターで、ひとしきりおしゃべりしたあと、メキシコ風の土鍋でつくった奥方の手料理をご馳走してくれた。わたしのメキシコシティでのコンサートのあとは、他の友人達も一緒に、コヨアカンのカフェで打ち上げをした。
 少し痩せたなとは思っていた。あとで知ったが、あの頃、すでに肝硬変を患っていたのだ。そして、医師の忠告にもかかわらず、淡々と、同じペースで酒を呑み続け、亡くなったとのことだった。
 それはとても、カリブ的な死と言うべきなのだろう。
 けれど、わたしは、大切な友人をまたもや失った。



 (8月30日 記)

 エレーナ・ブルケが亡くなった。
 正確には、亡くなったのは6月だったのだけれど、その詳細を知ったのがごく最近だったのだ。その一月ほど前から、腎不全を起こして入院していて、最後は心臓が弱っての死だったという。
 エレーナ・ブルケといっても、知らない方もいらっしゃると思うので、少し記しておこう。
 1928年2月28日ハバナ生まれ。
 40年代から、プロの歌手として歌い始め、56年から、例の『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』で大ブレイクして、つい先日日本公演も行っていたオマーラ・ポルトゥオンドとともに、『クアルテート・ダイーダ』という伝説的な女性四重唱で活躍。その後、ソロ歌手として、ロマンティックなバラードを歌わせてはキューバ最高、フィーリングの女帝と称えられてきた人だ。
 そして、いまから10年ほど前。まだ、キューバという名前になんの集客力もなく、営利企業がキューバの音楽になんの興味も示さなかった時代に、労音の制作で、キューバ音楽の全国ツアーを企画させてもらうことになり、わたしが選んだのが、ソンの素晴らしいバンド、グルーポ・ライソンと、エレーナ・ブルケという組み合わせだった。
 キューバといえば、明るい音楽。芸人的エンタテインメント。その印象が必ずしも間違っているわけではないが、それだけでない深さを彼女の歌で、日本に持ち込んでもらいたかった。
 とはいえ、当然といえば当然だったが、エレーナが最初歌おうとしたキューバのフィーリン(バラード)は、日本では知名度のない曲ばかり。それに対して、主催者側から、もうちょっと知られた曲をプログラムに入れてほしいという要請があった。
 主催者の立場からすれば、当然であるとはいえ、これは、じつは、アーティストにとっては極めてデリケートな問題である。
 けれど、エレーナは顔色ひとつ変えず、言った「だったら、どういう曲なら日本で知られているの」
 そうですね。グァンタナメラ。ベサメムーチョ。キサスキサス.....。
 帰ってきた彼女の返事は、あっさりしたものだった。「いいわ、歌うわよ」
 その会話のあと、わたしはエレーナに気分を害していないか訊ねた。すると、彼女はにやりと笑ったものだ。
「あたしが歌えば、芸術よ」

 そのステージは素晴らしかった。ライソンによる、軽快なソンやチャチャチャの幕間、ギター一本の伴奏だけで、彼女はめくるめく世界を引き出した。手垢のついたスタンダードが、これほど斬新にきこえたことがあっただろうか。
 名女優は70を過ぎても少女を演じることができるというが、彼女はまさにそれだった。能書きで誤魔化すこともなく、文字通り、歌だけの表現で。
 彼女が歌うと、たしかに、それは芸術だった。
 そして、あの圧倒的な存在感。それはまさに、女帝と呼ばれるにふさわしかった。

 それまでのわたしは、蝉が抜け殻を脱ぎ捨てるように、古いものを絶え間なく捨て去りたいという衝動に駆られていた。歌い手としては、わたしは必ずしも創作家ではないのだが、それだけに、レパートリーを選び、その作曲家たちと話し、理解しあうことは極めて重要だと考えていた。なにを歌うか、が、わたしという歌手の生命線だと思っていたのだ。
 その考え方は、いまでも本質的には変わっていない。とくにあの頃は、自分の考え方を他人にも押しつけずにはいられなかった。スタンダード曲を歌ってもらいたいというリクエストに、「ならば、どなたか他の方に依頼されるのがよろしいのでは?」と、答えたことがある。ステージの最中ですら、歌を聴いていないと感じたお客にむかって、出ていってくれと言い放ったことさえある。(あの、渋谷ジァンジァンで、だ)
 それが往年のラテン名曲選であれ、ビオレータ・パラやビクトル・ハラであれ、「自分の好きなあの曲」が聴きたいのであれば、録音に残された名唱を聴けばいいことで、八木啓代がリクエストに応じて歌うものではない。それは、たとえば、絵画作品そのものを見て自分がどう感じるのではなく、カレンダーでよく知っている印象派の絵の美術展で、解説を読んで、ははあ、これが例のアレね、と感心するようなものであり、そんな「確認作業にすぎない予定調和みたいな感動」を、少なくとも、わたしの歌でやってもらいたくはないものだ、と思っていた。

 しかし、エレーナから学んだ重要なことがある。「なにを歌うか」以上に大事なことは、「どう歌うか」だということ。

 ブエナビスタの大ブレイクで、盟友のオマーラ・ポルトゥオンドが世界的な人気を得、キューバ音楽が大量消費されるようになったこの時期に、そのエレーナの名前があまり聞かれなかったことには、もちろん、理由があった。
 数年前から、エレーナは不治の病を宣告され、闘病を続けていたのだ。
 そして、わたしは、いつのまにやら、エレーナの最高の片腕であったギタリスト、フェリペ・バルデスと組んで歌うようになり、あまりにも完全主義者的な彼のやり方に苦笑するときもありつつ、(10年以上、エレーナの専属だったのだ。ある意味では当然だろう)、その絶妙な技量と呼吸に支えられて、彼とツアーを行うようになっていた。
 そして、この2月にも、フェリペと、エレーナのことを語り合っていた。いつしか、硬派な曲を歌う合間に、柔らかいスタンダードを歌うことに抵抗がなくなっている自分に気がついた。 わたしが歌えば、どんな曲でも芸術だとは言わない。 けれど、わたし自身が、「なにを歌っているのか」ということと、「どう歌うのか」がきちんとわかっていれば、お客さんがそれをどう捉えようと、それは、お客さんの問題だと、自然に思えるようになったのだ。

 奇しくも、キューバの新聞に発表されたエレーナの追悼記事で、キューバのジャーナリスト、ナンシー・モレホンがエレーナをこう評している。
「(手に触れるものすべてを黄金に変えた)ミダス王のごとく、エレーナは歌うものすべてを、黄金に変えた」
 それは、歌い手にとって、まさに最高の讃辞である。そして、事実だった。
 キューバは至宝を失ったのだ。



(8月2日 記)

 住基ネット、杉並区と国分寺市も脱退を表明いたしましたな。
 福島県矢祭町が最初に英断を下したときに、思わず拍手を送ってしまったものだったが、思った通り、後に続く自治体が出てきてくれました。
 だいたい、誰でもわかると思うけれど、この住基ネットなるもの、情報漏洩やトラブルが起こらないと思う方がどうかしている。
 世には名簿業者というものがある。業者でなくても、その情報を欲しい者たちが存在する。彼らが、市役所の住基ネット担当者への接触を考えるであろうことは、もう、明らかではないか。
 警官ですら麻薬不法所持で、あるいはTV局のエリート職員が連続婦女暴行で逮捕されるこのご時世に、あれほど低い罰則規定だけで、市役所の職員を無条件に信じる無邪気な性善説はどこからきているのだろう。
 むろん、ひとつ確実なことがある。片岡総務相は、近い将来、危惧されている情報漏洩が起こったとしても、責任をとったりはしないだろうということだ。かつて、汚染された血液製剤や脳膜を野放しにした厚生省のように。

 矢祭町の離脱宣言の時に、片山総務相は「有名になりたがり屋」とコメントした。
 人間というのはおそろしいもので、こういうときの一言に自分の本音が透けてみえる。 つまり、「世の中なんでもカネ」と思っている人は、「カネではない価値観」で動く人間を理解することができないから、そういう人々が自分の思い通りにならないと、「もっとカネが欲しいのか」と考えてしまう。だから、可能なら札束で頬を張って解決しようとするし、それができないときは「カネ目当てだろう」とピントはずれな非難をするわけだ。
(反市民運動の立場をとる人たちには、こういう貧困な発想の人が、実は多い)

 で、片山総務相の場合、自分こそ機会あれば名前を売りたいという発想しかないから、他人が自分の想像の枠外の行動をとると、そう思ってしまうのである。
 で、こういうひとを総務相に選んでいるのが、小泉君と言えば、実にぴったりではありませんか、皆様。
 そして、杉並が続き、国分寺が続き、雪崩となって、全国の自治体が我も我もと離脱を表明したら、彼は何というのか。みんな、目立ちたがっているだけだと、それでも思うのだろうか。
 いま、住基ネットを中止すれば、数十億円の赤字が出る。
 それが、住基ネットをやめられない理由である、と、彼は言う。
 やめるといままでに使った費用が赤字になるから、無理にでもやる。その発想こそ、住民の反対を押し切って、無意味なダムや空港や道路を建設し、日本経済を(むろん、長野県も)借金まみれにした発想である。
 バブルの崩壊で土地や株が暴落したときに、今売ると損が出るからと怯んだ挙げ句に、とんでもなく膨らんだ損失を抱えることになったゼネコンや銀行の発想だ。
 このままだととても拙いことになる、と気づいたときに、あえて損は覚悟でいったん引く。それが株で損をしない秘訣である。(註:遊び資金がたっぷりあるなら別だけど)
 それがわからないような人間が、この国の舵取りをし、経済再建をしようとしているのだ。


(8月1日 記)

 NHKの朝のラジオ番組に、はまってしまっています。
 この時間帯、ふだんは、各界の専門家を招いて自分のことを語ってもらう番組で、これはこれで、けっこう愉しめるのです。なぜかって、専門家ってのは、専門バカという言葉があるぐらい、要するに「オタク」なわけです。で、そういう方たちが、存分に自分を語るわけですから、さらりとすごい発言が出てくる出てくる。そして、迎え撃つのは、もちろん、明石家さんまでも島田伸介でもない、NHKのアナウンサーですから、チャチャや突っ込みが入りません。だから、時として、すごいことになる。
 一番笑えたのは、苔の専門家の先生。あの日陰に生えるコケです。
 で、持ち時間中、苔がいかに可愛いかを愛を込めて語ってくださったのは当然として、ここで、出てきた聴収者の方のもっともな質問。
「苔を植えてみたいのですが、どこで手に入りますか」
 その瞬間、その先生は、声をひそめて(ラジオだから全国で聴いてるって)、大事な秘密でも打ち明けるかのように、苦渋の声でおっしゃいました。
「いや.....それは.....苔は売っているわけではありません。私はいろいろ持っていますが.......入手は......たいへん難しいものです」
(こっそり拾ってくるとは言えないのだろうな)
 そして、この先生は、最後のアナウンサーの「先生の夢は」という質問には、「大人になったら、宇宙飛行士になりたい」と答える子供みたいに元気いっぱいに、
「日本中の地下街を苔で埋めたい!」
と、おっしゃったのだった。
 このほか、ゴキブリの専門家の先生の、「ゴキブリの効果的な退治法」という質問にも、大笑い。すごく期待して聴いていたら、天真爛漫に言ってくださいました。
「台所の床中に、くまなくゴキブリホイホイを敷き詰めます」
 ね、すごいでしょ。このぶっ飛び方。

 で、ただいまは、夏休み子供電話相談室をやっています。
 これも笑える笑える。さすがに子供は発想がすごい。
「物質は、分子と原子でできていると本で読みましたが、どうやってわかったのですか」
などという、勉強のできそうなガキの質問は、当然だけれど、あまり面白くない。
「かなへびはなにを食べますか」
「かなへび、どうしたの? 飼ってるんですか」
「昨日捕まえたの。かなちゃんといいます」
 という少年の、かなへびかなちゃんの物語などになってくると、訊いている本人も、かなちゃんのために必死なので、なかなか質問に説得力がある。
 そうかと思うと、単に間抜けな、
「かぶとむしが餌を食べません」
「餌は何をあげてるの」
「たまねぎ」
「.......あのね、かぶとむしはたまねぎを食べないよ」
 これも、腹を抱えて笑ってしまった。

「ひろしくんちの文鳥は手や頭に乗ってくれるのに、うちの文鳥のピーちゃんが、手や頭に乗ってくれないのはなぜですか」
 この質問では、「先生」に、
「文鳥は雛鳥の時から躾ないと、手乗りにはならないから、きみとこのピーちゃんは無理だよ」
と、あっさり宣告されたときの、絶望に満ちた30秒間の沈黙なんてのは、もうドラマだ。

 答える先生は、動物園の園長さんや、天文台の先生(個人的に、私が親近感を持っている三鷹の天文台の話題も良く出てくるぞ)といった、各界一流の専門家が答えてくれるのが売りになっているのでもあるが、一流の専門家が、一流の児童心理学者ではないのも、これまた自明。
 その説明じゃ、子供どころか、大人でもわかんないぜ、というようなことを言い出すかと思うと、子供の夢や希望をうち砕くようなことを言ってしまって、慌ててフォローするさまなども聴くことができる。

 で、今日のヒット2本。
「ひまわりの種は、いくつありますか」
 植物学の先生、意気揚々と、
「ちゃんと数えましたよ! 1826個(註:正確な数はうろ覚えだ)ありました!」
「......」
「あの......1826個って数わかる?........」
「......」
「じゃあ、10個だったらわかる?」
「(しばらく考えてから).........10個はわかる」

 「ぶどうは、種がないのに、どうして『ぜつめつ』しないのですか」
 そして、植物学者の先生は、種なしブドウを作るホルモンの塗布について得々と説明を始められたのであった.....。
 いや、大人にもためになります。


(7月31日 記)

 フアン・ディエゴが列聖された。
 といっても、なんのことだか.....という方が大半であろうと思うので、いちお、解説。
 列聖というのは、カトリックのなかで、聖人として認定されること。
 フアン・ディエゴとは、1531年に、メキシコで聖母マリアに会ったという男。

フアン・ディエゴ だからどうした、おまえは、カトリック教徒かい、といわれそうですな。
 いえ、そうではないのですが、これは画期的なことでした。
 もちろん、メキシコには、すでに列聖されている人は他にいます。それも日本に関係がある。かつて、1597年2月5日、太閤秀吉のキリシタン弾圧で殉教した長崎26聖人のひとりとして、ヌエバ・エスパーニャ(スペイン領メキシコ)出身のイエズス会宣教師フェリペ・デ・ヘススという人物がいて、メキシコシティ中心の大教会カテドラルにまつられている。

 では、なぜ、二人目が画期的なのか。
 なぜなら、このフアン・ディエゴは、メキシコ先住民だったからだ。
 いや、メキシコに限らず、先住民が聖人として列せられるのは、カトリック史上初めてなのだ。

 あまり日本では知られていませんが、メキシコシティは、フランスのルルド、ポルトガルのファティマなどと並ぶ、カトリックの三大聖地のひとつです。
 それもそのはず、メキシコシティには、1531年に、聖母マリアが出現しているのです。
 正確には、1531年12月10日。メキシコシティ北部のテペヤックの丘で、インディオのフアン・ディエゴの前に、二度にわたって、アステカの言葉(ナワ語)で話し、「我こそは、聖母マリアである」と名乗る女性が現れます。
グァダルーペの聖母 これだけなら、ただのアブないおばさんですが、彼女は、二度目には、聖母である証拠として、そのフアン・ディアゴの前で、真冬であるにもかかわらず、薔薇の花束を取りだして、彼に与えた。
「これを持って教会に行き、神父に我の出現を告げよ」
 慌てふためいたフアン・ディエゴは、自分のマントでその薔薇の花束をくるみ、教会に走っていきます。そして、神父に話し、証拠の薔薇の花を見せようとする。すると、ポンチョの中から薔薇の花束は消え失せ、かわりに、布地に聖母の姿絵が浮かび上がっていた。この奇跡に畏れおののいた人々は、マリア出現の地に大教会を立て、そのマリアをメキシコの守護聖母として、現在に至るまで奉っている。
 この聖母が「グァダルーペの聖母」と呼ばれるのは、彼女自身がそう名乗ったからとも、あるいは、スペインでやはり聖母出現の伝説のあるグアダルーペから来たのだとか、諸説あり。

 これが伝説です。この手の伝説にありがちな奇跡のディテールもありまして、近代になって、この布地を調査したら、絵はその時代の技術で描かれたものではなかっただとか、その絵を拡大してみたら、聖母マリアの瞳の中に、フアン・ディエゴの顔が映っていただとか、実にまことしやか。
 しかし、これらの『奇跡』の真偽はともかく、ひとつ、確実なことがあります。
 マリアが現れたテペヤックの丘こそは、本来は、アステカの大地の女神トナンツィンの神殿の場所。そして、マリアを自称して現れ、奇跡を起こした女性は、白人ではなかったということです。
 ここに、カトリックの最大の矛盾が起こります。
 唯一神を信仰し、異境や異端を認めない宗教であったがゆえ、「マリアを自称して現れ、明らかな奇跡を起こしたモノ」を、法王庁は「異教の神」と認めることはできなかった。異教に神などあるわけがないからです。必然的に、それはマリアでなくてはならない。それが、褐色の肌をしていたとしても。
 こうして、「マリアの化身」という説明のもと、法王庁は、その「女性」をマリアと認め、それ以後、メキシコは彼女を守護神とします。
 彼女の現れた12月10日は、グァダルーペの聖母の日とされ、この祭日には、メキシコ人たちは、なぜか古代アステカの鳥の羽根飾りを身につけ、蝋燭をともし、香を焚き、笛と太鼓の先住民音楽を奏でて祝うのです。
 この矛盾。しかし、それでも彼女は、聖母マリア。
 その褐色の『聖母マリア』の統べる国がメキシコなのです。

 この伝説を聞いて、『名を捨て実をとる』という諺を思い出したのは私だけではないでしょう。
 それが、メキシコという国の本質です。
 カトリックの祭日の多くはメキシコ化され、あきらかにハロウィーンとは異質な死者の日などの宗教行事となる。料理はスパイスが利かされ、アステカの名物だった路上市(ティアンギス)は、メキシコシティの地下鉄を席巻する。
 スペインの民謡の調べには、いつのまにか、リズムに違う揺れの感覚が混ざり込む。
 アステカの言葉はほとんど失われてしまったけれど、その歌うようなアクセントとイントネーションは、メキシコシティで話されるスペイン語の『チランゴ訛り』のなかにはっきりと残っている。

 それが、私の持つメキシコのイメージなのです。
 そして、フアン・ディエゴが聖人に。
 かつて、キリスト教原理主義者が、聖書には新大陸が記載されていない、それゆえに、先住民はアダムとエバの子孫たる「人間」ではない、という理屈でもって、先住民への虐殺を正当化した、その新大陸で、ついに、先住民の聖人が誕生したのです。
 それは、遅すぎたともいえるけれど、カトリックが、ある一線を越えた瞬間でもありました。

 かつて、古代の神々を滅ぼし、主の言葉を伝えるために、あらゆる先住民の神殿を破壊し、その石でもってカトリックの教会を建設した、残虐にして信仰厚いスペイン人征服者たち。
 彼らが気がつかないうちに、彼らのつくった教会は、内から変質していたのです。そして、彼らですら許されなかった列聖の玉座に上がったのは、インディオでした。
 そのどちらが、本当に残虐なのだろうな。
 スペインの面の下に、褐色の肌。
 そのさらに下で、古代の神々が、にったり笑っている。
 ちょっと、ホラーかも。


(7月11日 記)

 このモノローグも一ヶ月空いてしまいました。
 退院したはずなのに、いったいどうしたことかとご心配の方もいらっしゃったでしょう。
 じつは、うちからごく近くの親戚の家の脇にマンションが建つことになり、その騒ぎに巻き込まれていました。
 むろん、都会に住む以上、良好な生活環境を求めるといっても自ずから制約はあります。ましてや、わたしは、都会育ち(大阪の商業地域ど真ん中)なので、住居立地の至便と環境は両立しないものと割り切った考え方をしている方です。
 しかしながら、このケースはそういった受忍限度を著しく超えるものでした。
 もちろん、親族宅なので、うちが直接の被害があるわけではないのですが、その親族が高齢者で、しかも工事被害で一時的に半寝たきりになってしまったこともあって、放ってはおけなくなってしまったのです。
 しかも、業者は、住民側とまともに交渉しようともしない。そんな中で、現場での不法投棄や土壌汚染の疑いまで出てきたので、さあ大変。
 というわけで、これまた、最初は安楽椅子探偵をやろうと思っていたところが、結局、ハードボイルドの世界に突入。ときには少年探偵団の真似をしたりしておりました。
 その間、よほど、ここにも経過を書こうかと思ったのですが、それはやっぱりまずいので、遠慮。その話を詳しくお知りになりたい方は、こちらをどうぞ。
 こちらでいろいろと文章を書いたり、調べものをしていたので、けっこうばたばたしていました。
 おかげさまで、現在、企業との和解交渉が進んでいますが、これはこれで勉強になることも多かったです。
 たとえば、日本には、本質的に都市計画という観念がないということ。
 日本の法律では、環境権というものはまだ認められているとはいえないということ。
 建築基準法とは、どんどん建てよの高度成長期ならともかく、現在にはそぐわないとしかいえない法律であること。
 そして、和解するならするで、住民の側に立った工事協定書づくり。設計変更の議論や、土壌調査のあれこれ......やることは山積みです。
 お役所にも何度か行きました。
 改めて、お役所にもいろんな人がいるものです。
 行政は、基本的には、こういうケースでは中立の立場しかとれず、したがって、業者のやりたい放題を見て見ぬふりということも多いようです。今回も、文字通り、たらい回しと責任転嫁のかたまりのような人もいれば、本来の役所の「縦割りで決まった自分の仕事の範囲」の中で、できるだけなんとかしようと知恵を絞ってくれる良心的な人もいる。
 基本的には、今回、地域住民が勝ち取りつつある和解は、住民の結束と努力の賜ですが、じつのところ、個人的に協力してくれた役所の方たちの尽力もあってのものです。けっして、わたしが、嘘泣きや色仕掛けをかましたわけではありません。
 いうまでもなく、土壌汚染とて、わたしがこっそり夜中に敷地に入って砒素を撒いたりしたわけではありません。
 それにしても、この件を知って、「おとなしい下町の住民の中に、八木が混じっていたのは、むしろ相手の業者の不幸」などというメールをくれた人。 ほら、君だよ、君。
 いくらわたしが謀略小説家だからといって、人聞きの悪いことは言わないように。(笑)

 でも、ある時点で、足下の状況に気づいて、すみやかに和解を提案された業者さんもさるものです。気づいていらっしゃらなければ、今頃は仕掛けた落とし穴やねずみ花火が次々に.....。


(5月29日 記)

 さて、NANAOのモニターで画面が綺麗になって、嬉しくてたまらない......というので、思い立って、Yahooのオークションを覗いてみました。
 なんと、NANAO用の別売り附属ケーブルが、非常に安価で出ているではないか。
 この別売りケーブルを使えば、2台目のパソコンも同時接続できるのです。ただ、けっこういい値段するので、そこまですることないかとあきらめていた次第。
 さっそく落札して、届いたケーブルで2台目接続。これで、メインに使っているMacintosh G4に加えて、古い方のマシン(Macintosh 6300/120)もサブに使えるわけです。さしあたって、すぐにどうこうというメリットがあるわけじゃないけど、6300に入っている古いソフトが利用したいとき(たまにある)、電子メールを使いこなせない人から、フロッピーディスクでのデータの受け渡しを求められたとき(たまにあるのだが、G4にはフロッピーディスクドライブがついていない)などの場合、パソコンスタンドの裏側にもぐりこんで、モニタの接続ケーブルをつけかえるという面倒な作業をやらずにすむし、ゆくゆく、Windows環境との共生も可能。すぐに、落札。
 じつは、何度もネットオークションを利用したことがあります。海外滞在用のiBookとか、デジカメなどを落札したほか、不要品を売り払ったことも数度。オークション詐欺などもあるようですが、内容や相手先をよく確認しているせいか、幸いなことに、私はいままで、問題に遭遇したことはありません。

 そろそろ術後3週間だしと、調子に乗ってちょっと長時間の外出をしたら、どっと疲れが出てしまいました。
 あまり図に乗ってはいけないな。
 というので、ゆっくり読書です。
 病院入院時から、ここのところ、読書タイムが多くなっています。ミネット・ウォルターズ、ルース・レンデル、パトリシア・コーンウェル、ブリジット・オベールなどの女性作家を中心に、未読のものを一気に読破中。なかでも、ミネット・ウォルターズとブリジット・オベールは、小説のまさに小説らしさを存分に愉ませてくれます。
 それにしても、病院で読むスプラッターホラーはなかなかぞっとしますぜ。


(5月24日 記)

 あまり出歩けないし、腹に力も入らないようなときに限って、些末なトラブルが続きます。
 なんと、パソコンのモニタが危篤になってしまいました。作業していると、突然、消えてしまう有様。ご臨終まで時間の問題。
 とはいえ、体調が体調なので、秋葉原まで行ってモニタを物色するというわけにもいかなかったのですが、そこは、『時代』のおかげ。
 価格com(http://www.kakaku.com)という、インターネット上のショップ(厳密に言うとショップの集合体)にアクセスして、モニタを比較物色。あこがれのNANAOのモニタが魅力的な価格で出ていたので、最安の店を選んで注文。5分後には注文確認が電子メールで来たので、メールでの指示に従って、新生銀行のネット振込(振込料無料)で振込。
 その20分後には、入金確認のメールが来て、翌日昼(つまりさっき)、新しいモニタが届いてしまいました。
 店の中でああだこうだと比較する楽しみはないけれど、こういう時にはほんとうに便利です。
 それにしても、NANAOのモニタは、嘘みたいに綺麗。解像度も色も素晴らしい。でも、クリアすぎて、ちょっと目には悪いかも。
 あまり根を詰めるなということですね。


(5月23日 記)

 多忙といいつつ、じつは、入院しておりました。
 卵巣嚢腫という宇多田ヒカルのおかげで有名になってしまった病気です。
 とはいえ、卵巣嚢腫にもいろいろな種類があるようで、明らかに良性であった彼女は、回復の早い内視鏡の手術で済んだようですが、わたしの場合は、悪性の疑いがあったので、開腹手術のうえ、左卵巣を摘出ということになってしまいました。
 卵巣は沈黙の臓器とはよく言ったもので、こうなるまで、自覚症状は皆無。たまたま出かけた定期検診での発覚です。これが、ライブの1週間ほど前。
 精密検査の結果も、腫瘍マーカーの数値が高くて、悪性の可能性が否めないため、なるたけ早く手術しようということになり、連休明けにさっさと手術をしてきました。
 手術そのものは、極めて順調。予定より早く終わり、そのせいか、お医者さんも驚く回復でした。だいたい、最近の医療は大したもので、手術後、麻酔が切れたあとも、背中に入れた管から痛み止めが注入されているので、予期していたほど痛まないし(それでも痛いというと、すぐに痛み止めを追加してもらえた)、点滴の針も腕に刺しっぱなしで固定されて、チューブを取り替えるだけなので、腕がぶつぶつと針穴だらけになるわけでもない。
 苦痛の軽減があるため、手術したその日から寝返りが打てるし、翌日には半身起きあがって、重湯を食べられます。で、手術後2日で平常食。3日も経つと歩いてトイレに行けるありさま。
 で、やたらに安静にするより、なるたけ動いた方が回復が早いと聞くと、早速、屋上に上って散歩したりする八木。(爆)
 ということで、経過もいちじるしく良く、手術後9日で病院を追い出されてしまいました。顕微鏡検査の結果、おかげさまで癌の疑いも晴れました。
 しかし、それにしても、シャバの食べ物の美味しいこと。
 で、退院の翌日には、仕事がらみで(近所ではありますが)打ち合わせに外出し、翌々日には、(タクシーでだけど)魚市場に、お寿司食べに行った莫迦はわたしです。
 もちろん、まだ重い物は持てないし、非常に疲れやすいので、本格的に仕事に復旧できるのはしばらく先となりますが、そんな調子です。 旧友でペルー在住のSさんが送ってくれた『アンデスの滋養強壮植物マカ』のカプセルを飲んだりして、ぼちぼちがんばりましょう。

 ところで。
 わたしが寝込んでいる間も、中国の日本総領事館が、国際的な恥をさらしてくれます。そもそも、日本は、今更いうのもなんだけれど、自称先進国とは情けなくていえないほど、人権感覚にも外交感覚にも疎い(というか遅れた)国なんですが、「うざい問題をなるたけ考えずに先送りにする体質」というのが、ものの見事に露呈した事件でありました。


 (4月30日 記)

 なんと、はじめて、救急病院の世話になってしまいました。
 最初は、目にゴミが入って、ごろごろ。こういうのはたいていすぐに涙で洗い流されるのだけど、それが、どうにもとれない。
 外出中でもあったので、そのまま我慢していたら、だんだん鼻水まで出るように。
 ここで、変だと思えば良かったのだけど、夕方で気温が下がってきたせいだと思い、依然としてごろごろする目のまま、帰宅。
 それからしばらくして、だんだん本格的に痛くなってきたのです。しかも、痛くなってきたと感じてからは、急転直下。私がキューバで目の手術をしてから、ほぼ十年前になりますが、まるで、あのときの麻酔が切れた直後のような痛み.....いや、それ以上。
 これはまずいと、洗面器に顔をつけて目を洗ったのですが、それでも、ゴミがとれた感じがない。痛みはさら増し、鏡を見れば、目は充血して真っ赤。
 真剣にやばそう。
 ところで、こういう時に限って、土曜の夜九時だったりするのですね。

 痛いといっても、救急車を呼ぶほどのことはないので、近所の救急病院に電話してみたところ、うちは眼科はないのでと、消防署の救急医療サービスの電話番号を教えてくれました。そちらに電話すると、最寄りの病院(この場合は、文京区の日本医大病院)を教えてくれました。すぐに、日本医大病院に電話して、場所を確認して向かいます。
 驚いたことに、救急医療の受付にはけっこう待っている方が多い。
 このころになると、目は相当痛くなっていて、ここで待たされたら辛いなあと思っていたら、15分ぐらいで、眼科に案内してもらえました。

 結局、瞼の裏に金属片みたいな尖ったゴミが貼りついていたとのことで、瞬きをするたびに、そのゴミが角膜をこすっていたのでした。うわぁ、聞いただけで痛そうでしょ。
 もちろん、角膜の黒目部分にはしっかり傷がついていて、抗生物質で洗ってもらい(これが飛び上がるほど滲みた)、軟膏を塗ってもらい、ガーゼ、眼帯。

 もちろん、傷といっても大したものではなかったので、翌日には眼帯はとれ、三日後の再診では問題なしということで、解放されたのですが、それにしても、効き目ということはあるけれど、片目が見えないだけで、生活の不便なこと。
 ただ道を歩くというだけのことにも、気持ちを集中しなければなりません。
 逆に言うと、普段、いかにいろんな動作を無意識かついい加減にやっているかということですね。


(4月27日 記)

 昨夜は、ひさびさのHAVATAMPAライブでした。
 ご来場になってくださった皆様、どうもありがとう。
 今回は、バンマス吉田憲司のひさびさの復帰とあって、たいへんリハーサルからハードでした。 ひさびさって、前回も吉田さんいたじゃない.....と言われてしまいそうですね。
 はい、そうです。前回のスイートベイジルでも、たしかに、吉田憲司は舞台に立っていました。ただ、あまりトランペットを吹かずに、クラベスを叩いたり指揮をしたりするのが主だったのです。
 その理由は、前回も書いたとおり、相次ぐ故障でドクターストップに近い状態だったから。
 あれから半年。リハビリの成果もあって、吉田ほぼ完全復調となったわけです。
 そうなると、もともとテンションの高い彼のこと、楽器がほぼ思い通りに操れるようになったとなると、さっそく、新曲をどんどん書き始めたのでした。これはほとんど、業というか、ビョーキのようなもの。
 それも、2曲や3曲ではない。
 メンバーのスケジュールの都合で、リハーサルは2日しかないというのに、なんと6曲の新しい譜面ができあがってきていたのでした。
 ついでにいうと、なまじっか、書いた人の体調が良いために、その編曲も、めちゃめちゃきつい。(笑)

 そういう状態で私たちは、ライブ本番に望んだのでありました。
 ライブでは新曲は5曲だったじゃないかって?
 ......だから、1曲は、完成しきれなかったのですよ。その理由は、また後ほど。


(4月26日 記)

 みずほ銀行から、トラブルお詫びのメールが来ました。
 いまごろ、というのが、正直な気持ち。
 みずほ側にしてみれば、25日の給料振込の結果を見てからでないと、「再発防止につとめます」とも言えなかったから、ということだろうが、そういう問題ではないだろう。
 昔から、みずほ、というより、旧第一勧銀はサービスが悪かった。
 サービスが悪い、というのは、定期預金をしたらサランラップをくれるとかいうようなことではなくて、自分たちに非があるクレームに対して、きちんと謝罪するかわりに、平気で言い訳するようなところがあるということだ。
 むろん、個人客など適用にあしらっておけばよいというようなマニュアルがあるわけないのだが、こういうのは、体質のようなところがあって、私が何度か不快感を感じたのも、きまって旧第一勧銀だったし、そういうこととは別に、たまたま個人的に知り合った旧第一勧銀勤務の人も、けっこう男尊女卑的で鼻持ちならないやつだったせいもあって、どうも、旧第一勧銀の印象が悪いのだ。(もちろん、第一勧銀勤務の人がみんなそうだといいたいわけではない。愛社心と業務への責任感を併せもつ有能な人だって、たくさんいると思う。ただ、残念なことに、人間の印象というのは、きわめてプライベート且つ限定的な体験から作られてしまうものなのだ)
 だいたい、他の銀行が当然のようにぜんぶ無料なものだから、最終的には自分たちも無料にしたものの、インターネットバンクも当初は有料にするつもりだったとか、そのあおりで、いまでも、「インターネットバンクのサービス料は無料です」などとホームページにわざわざ書いているのも、なんか恩着せがましい。(もちろん、インターネットでの振込料などが無料というわけではない)
 んで、なんでそんなに第一勧銀が好きでないのに、口座を持っていたのかと突っ込まれそうですね。それは家賃など振り込みのためだったのでした。要するに、生活費用の口座。

 外国でお金を引き出すことの多いわたしは、シティバンクをメインに使っているのだけど、外国銀行であるということもあって、引き落とし口座などに指定できない場合があるのです。
 でも、今回のみずほのトラブルにはもううんざり。
 というわけで、この生活費口座を、新生銀行に移転することしました。
 なんで、新生銀行かというと、支店数は少ないけれど、イトーヨーカドーやセブンイレブンのATMが無料で使えるということと、インターネット取引での全銀行への振込無料に心を惹かれたから。
 で、早速使っています。
 結論からいうと、新生銀行の使い心地は、まだまだというところ。
 後発のうえに、支店数が少ない分、手数料のキャッシュバックや振込料無料というサービスで追いかけている気持ちは買うのだけど、肝心要のインターネット取引の使い勝手がけっこう悪い。
 まず、マッキントッシュだと、使えるブラウザがNetscape Comunicator4.7だけ。Internet Explorerも、NN6も、Operaも使えない。しかも、そのNC4.7も、デフォルト設定のままでは使えない。
(第一勧銀〜みずほのインターネットバンキングでも、マッキントッシユ環境でIEは使えないと書いてあるが、ちゃんと使えた)
 だから、私の場合、新生銀行にアクセスするだけのために、NC4.7を立ち上げるわけだが、このページもいちいち重く、デザインもださい。

 その点、ジャパンネットバンクのサイトはさすがにすごい。ページも軽いし、わかりやすい。痒いところに手が届くようなつくりになっていて、デザインも機能的。
 次いで、インターネット取引のキャリアの長いシティバンクが、シンプルで洗練されている。
 三井住友やみずほといった日本の都市銀行系はその次という感じ。
 で、新生銀行は、その次。
 インターネット取引を売りにしているんだから、都市銀行よりレベル低いなんて言われてちゃ駄目だよね。

 ただし、許せるのは、新生の電話のカスタマーサービスの質がいいこと。いつでもすぐにつながるし(多くのカスタマーサービス、見習ってほしい)、シティバンクみたいに繋がると同時に、機械音声で延々と新商品の宣伝を聞かせられたりしないし、対応は迅速で丁重。
 そして、この超低金利下、やはり振込手数料無料はおいしい。(9月までは、あらゆる銀行での預金引き出しも無料)
 ということで、新生の今後の使い勝手向上に期待して、本格的に使っていくことにしたのでした。


(4月10日 記)

 エイプリルフールでの遊びは楽しんでいただけましたでしょうか。
 まあ、たまにはバカもいいものです。(って言いながら、ほれクリスマスだ、ほれなんだと遊んでばっかりいるじゃないかという突っ込みはパスね)

 国会はますます混迷し、パレスチナにはついにイスラエル侵攻。
 情勢がろくでもないことばかりなので、ちょっとぐらいは現実逃避したくなります。

 パレスチナについては、イスラエルが極右シャロン政権となり、そして、昨年9月のニューヨークでのテロ事件の時に、(このモノローグでも書きましたが)犯人の見当がつくより前に、「テロを喜ぶパレスチナ民衆」という非常に誤解を与えるような映像が、いの一番に流されたときから、何かあるだろうとは思っていました。なにかをきっかけに、パレスチナ叩きが始まるのではないか。それも、かなりひどいことが。
 そして、悲しいことに、当たって欲しくない予感ほど当たるものです。

 今回のイスラエルのパレスチナ侵攻。れっきとした侵略行為です。それも圧倒的に軍事力が勝る国が、圧倒的に弱い国を攻撃している。
 わたしが一番恐れていたこと、テロ対策という口実さえでっちあげてしまえば、なんでもやれる、どんな非道なことでも、国際法を踏みにじるようなことでもできてしまうという現実が突きつけられているわけだ。

 この暴論の前では、「いかなる革命も改革も、それに反対する勢力からはテロと呼ばれる」という歴史の教訓は無視されています。テロがいっさい「誤って」いて、「撲滅せねばならない」ものなのだとすれば、フランス革命は起こせなかったし、アメリカ合衆国だって独立できていなかったはずではないのか?
 もっと近い例を挙げるなら、ノーベル平和賞を受賞し、後に大統領となった南アフリカのネルソン・マンデラも、また、同じくノーベル平和賞を受賞し、いま、東チモールの大統領選で当選確実視されているシャナナ・グスマンも、テロリストと呼ばれた人たちである。
 抑圧する政治があれば、それに刃向かう人々は生まれ、そして、抑圧する側からは、そういった人々は歴史的にテロリストと呼ばれてきたのだ。

 なにも、私は、いわゆる無差別テロとか、狂信的な団体を擁護しているわけではない。
殺し合うことで問題が解決すると思っているわけでもない。
 問題は、争いというものは、けっしてシンプルではなく、その当事者同士の歴史、文化、そして争いの経過は千差万別であって、「テロ攻撃」と呼ばれるものも、けっして、十把一絡げにできるようなものではないということだ。

 わかりやすい解説というのは、TV受けするかもしれないが、それは所詮それだけのものでしかない。世界の紛争は、背景に複雑な文化事情や歴史が絡んでいて、そう簡単にわかりやすく一刀両断にできるはずもない。

 そして、パレスチナ。まさに複雑といえば、これ以上複雑なものはない問題に、イスラエルのシャロン政府は、ブッシュ流の「テロ=悪」で、都合の良い結論を持ち込もうとする。
 これに対して、一応、各国は非難の声を上げているようだが、その生ぬるさはなんだろう。そして、日本の対応はなんだろう。
 なにより悲しいのは、個々人がすぐれた能力を持つことに定評があり、また、ホロコーストという残虐を経験したユダヤという民族の人々が、(それ故にとは思いたくない)、他文化の他民族に対して、これほどまでに残忍になることができるという事実である。
 それがわたしを、とても鬱にさせる。


(3月30日 記)

 ところで明日は、エイプリル・フールです。
 今年はなにが起こるかな。


(3月29日 記)

 ついに、辻本さん、女ムネオとまで言われるようになりましたな。
 水に落ちた犬を徹底して叩く、日本のマスコミの面目躍如であります。
 で、ここ数日、したり顔で、
「辻本清美が最初に疑惑を否定し、それからTVで事実を話しつつ、同情を得ようとした、その手法が誤りだった」
 とか
「TVで有名になった彼女が、TVを利用しようとして失敗した」
 というコメントが目につきます。
 それはまさにそうだろうけど、それを、得意顔で言うことではないと思うぜ。だって、それはまさに日本のマスコミの問題点なのだから。
 サッチーの時といい、勝手なときは持ち上げるだけ持ち上げて、何か起こると、過去の些末なことまでほじくって叩く、マスコミの反省というのは一言もないのだろうか。


(3月27日 記)

 鈴木宗男議員の疑惑を叩いていた急先鋒の、辻本清美議員が、今度はスキャンダルの渦中にはまってしまった。
 なんとまあ、素晴らしいタイミングで、たぶんかなりの数の議員が不文律的にやっている誤魔化しが、彼女に限ってバレること!
 と思ったのは、私だけではあるまい。
 もちろん、駐車違反だろうが、軽微なスピード違反だろうが、違反は違反である。
 これは正論。
 しかし、べつに辻本議員の肩を持つわけではないが、規則通りにやってばかりいられないことが世に多いのもまた確か。そして、本気で誰かを陥れようと思った誰かが、その人の犯しそうな些細な過ちを求めて、徹底して重箱の隅ほじくれば、100%「まっしろな」人間など、果たしているのだろうか?
 法律違反までしていなくても、過去に発表したものの些細な事実誤認やら、意図的な誤解やら、あるいはその人を逆恨みする人の言質をとれば、いくらでも、誰かを悪人に仕立て上げるのは簡単だ。
 わたしの勘違いでなければ、今回、辻本議員に関する「暴露」を行った週刊新潮は、以前にも、ピースポート叩き記事を大きく掲載したことがある。
 それは、きわめて悪意に満ちた、一方的なものだった。要するに、ピースボートは、良くも悪くもボランティア組織であり、ピースボートの旅も、友好と親善のための青年の船である。いわゆるタイタニック号一等船客みたいな気持ちを味わえる豪華絢爛なクルーズではない。(そもそも、そういったクルーズとは参加費の桁が違う)
 にもかかわらず、ピースボートに何か勘違いして乗って、サービスが悪い、扱いが悪いと駄々をこねた客、まさに、ユースホステルに泊まっておいて、一流ホテルのサービスがないと騒いでいるような人の言い分を、さも、一般論であるかのように取り上げたという代物だ。
 要するに、週刊新潮は、ピースボートに、ある種、根強くて異常な反感を持っていて、今回も、またやったということだろうね。
 それは違う。事実、辻本議員は詐欺行為を行っていたのだから、断罪されて当然だし、新潮は正しいと思う方もおられるだろう。
 確かに、新潮は正しい。ただし、他の議員の秘書の給料がどうなっているのかも、すべて調査して明らかにする意志があり、それを実行に移すことができるのならば、だ。

 だいたい、秘書の給料を、それぞれ国が決めなくても、まとめて、ほぼ現在の3人分に相当する上限いくらの額を支給し、その金額で、3人雇おうと、10人雇おうと、それは議員に任せるのに、何か不都合があるのだろうか。

 これまた、たぶんみんなそう思っているのだと思うけど、要するに、日本という国は「出る杭は打たれる」という法則が、つねに最重要なのだ。
 ちなみに、この「出る杭は打たれる」という諺は、私の知る限り、他のどこの国にも存在しない。
 そして、一言にして、あまりにも日本社会というものを象徴しているので、じつは私は外国で、日本について訊かれたとき、よく引き合いに出すことにしている。たいていの外国人は、この言葉を聞くと、かなり驚いてくれ、そして、薄々理解してくれるからである。
 察しのよすぎるやつになると、「なんで、君が、日本にどっぷりと住まないのかがよくわかる」とまで言われる。
 それはじつは、ちょっと複雑なんだけれどね。


 (3月12日 記)

 田中真紀子女史がいわく。
「ムネオ的なものは、まだたくさんある」
 それを聞いて、彼女の父親を連想したのは私だけではないでしょう。
 民のための政治をやっていて田畑を失ったというならまだわかるが、どうやったら、会社をいくつもつくったり、目白御殿が建つというのだろう。田中家の金脈といわれる信濃川河川敷の購入など、極めて悪辣なインサイダー取引そのものではないか。


(3月8日 記)

 ほんの数日前、鈴木代議士を批判した私であるけれど....。
 それにしても、彼がこう天下の悪役としてバッシングされてしまうと、「反撥癖」のある私としてましては、どうも居心地が悪い。
 なんなんだろうね。
 この日本人の「水に落ちた犬にみんなでよってたかって石を投げる風潮」!
 まず、マスコミ。こうなるまえに、告発することもできなかったのに、それを恥じるどころか、自己を検証するどころか、ここぞの大叩き。
 安全なところから、わかりやすい悪役を叩くほど、楽でいいかっこできることはない。
 というよりも、これこそが権威主義。
 マスコミという「権威」によって、「悪」とされたものは、誰でも安心して叩けるし、そのことで、自分が善良であるという自己満足に浸ることができる。
 逆に、マスコミという権威が「誉めた」ものは、誰でも安心して鑑賞できるというわけ。
 権威は多くの場合、権威であるだけで、それ自体に価値があるわけではないのだけど、日本人はそれを知らない。あるいは、そんなこと知っているよと口では言うけれど、それは口だけで、実際にはやっぱり権威に追従している。だから、日本人は恫喝に弱い。

 この「自分の頭で考え、自分の感性で感じ、自分で判断する」能力の欠如。
 この気持ち悪い権威主義こそが、かつて日本国民をばかげた戦争に追い込み、いままた、経済をどつぼにはめているのではないかね?

 といいつつ、ここ数日株価が上がってるので、説得力ないかな?


(3月3日 記)

 税金の申告も終えて、ちょっと一息ついている間もなく、最近は、テレビが面白いこと。
 って、もちろん、ドラマではなくて、鈴木宗男議員と外務省の癒着問題。
 それにしても、恫喝というだけを武器にした、あまりに稚拙というか、レベルの低い癒着で、ほんとに力が抜けてしまう。これだと、わたしの知っている、キューバの悪徳役人とマフィアの癒着(これで、日本企業などがけっこうカモにされている)の方が、まだ、レベルが高いといえそうなほどだ。

 それにしても、なんで、あんな恫喝で外務省の役人達が言いなりになってしまうのか。
 利害関係というだけの問題でもないだろう。(利害だけの問題なら、この件には他の政治家も多数絡み合って、もっと一筋縄でいかない様相を呈しているだろう)
 思うに、外務省のキャリアというのは、一流大学を優秀な成績で卒業して、外務省に入省。そこでも、はじめから出世が約束されている。
 まさに、エリート中のエリートだ。
 だから、若いうちから、将来の大使として、晩餐会や外交儀礼の訓練を受ける。ノンキャリアにかしずかれるのが、当然となる。それは、まさに、(嫌いな言葉だが)セレブリティの世界である。
 そんな優秀な彼らの大半は、おそらく、出身家庭も、貧困などとは縁の薄い、「いい家のおぼっちゃんたち」である。
(実際に、皮肉にも、受験戦争を勝ち抜いて東大に入学するのは、高所得家庭の子供が圧倒的多数を占めるという統計的データがある)
 そのような、温室の花たちには、問答無用で怒鳴られたり、殴られたりした経験があるとは思えない。
 だからこそ、簡単に、「びびって」しまう。
 理論や道理より先に、精神的肉体的な暴力的脅威に、抵抗したり反撥したりするより先に、あっさり服従してしまうのだ。
 鈴木宗男は、外務省と言うところを知り、すぐにそれを本能的に見抜いた。見抜いたからこそ、理屈抜きの恫喝路線で、突っ走った。そして、それは功を奏した。
 そのあまりの簡単さと、温室の花たちにかしずかれる居心地の良さに、彼は、いつしか、暴力的脅威を与えられても服従せず、逆に、反撥するという種類の人間がいるということ、そして、NGOとはまさにそういう人間の集団であるということを、忘れてしまったのだろう。

 そこまでに、外務省のエリート達は、暴力に弱かったと言うことだ。まるで、5千万円を脅し取られた少年のように。

 
 一方、田中真紀子氏とはどのような人か。
 父親、田中角栄氏が、一代で築き上げた目白御殿で育ち、父親の圧倒的な権勢のもとで育った。別の意味で、常に自分が権力の座にいてかしづかれているのが当然だという、歪んだプライドの持ち主である。だから、彼女のような人物には、「超サラブレッドであるはずの自分」が「鈴木宗男ごときの成り上がり」と天秤に掛けられるのは、ぜったいに許し難いことであった。そこには、ある種の同族嫌悪に近い感情もあるかもしれない。鈴木宗男は田中角栄の縮小コピーであり、鈴木宗男の存在こそは、田中真紀子に、彼女はサラブレッドでも貴族でもなく、大成功した成り上がりの娘でしかないことを認識させるからだ。真紀子は宗男を否定し、政治的に抹殺することで、自分の「成り上がり度」を否定ようとしている。

 だから、鈴木宗男を叩き潰さずにはおられないし、また、自分と鈴木宗男を「天秤に掛け」て、両成敗という形で、同等とみなした、小泉を許すことができないだろう。

 では、真紀子とは何なのか。
 わたしが苦笑してしまったのは、彼女が執務室で指輪をなくしたとき、部下に「デパートで買ってきなさい」と命じたという事実だった。「出入りの宝石屋を呼べ」と言ったわけでも、せめて「デパートの外商の○○に電話しろ」とも言わなかった。 つまり、年季の入ったほんものの金持ち、要するに上流階級は、デパートに指輪など買いにいかないものだということを、彼女は知らなかった。もちろん、まわりの誰も教えてくれなかったのだろう。
 では、彼女は庶民なのか?
 しかし、まともな教育を受けた庶民であるなら、証拠もなしに他人の盗みを疑ったりしないのは社会常識であるし、外国の高官を個人の都合で待たせたりするようなことは失礼であるということも常識である。
 要するに、彼女は、成り上がりの我が儘娘がただ成長したというだけの、裸の女王様でしかないということだ。

 ちょっと脱線してしまったから、話を戻そう。
 たかが、一国会議員の恫喝すら告発することさえできず、言いなりになってしまうようなひ弱なお花を頭に飾っている外務省が、成り上がりの我が儘娘が大臣の座を手に入れたとして、その程度の人間に振り回される外務省が、どうやって、海千山千の連中相手に、「外交交渉」ができるのか?
 できるわけがない。
 その結果のひとつが、あのペルー人質事件で、当事者でありながら、自力での解決もできずに、あんパンを配ることぐらいしか思いつけず、挙げ句に「恫喝的手法」で解決したフジモリ氏が、問題を起こして日本に逃げ込んできたときに、毅然とした態度もとれない。
 (この件が、どれほど、日本の国益を損なっていることか)

 そして、先日のニューヨークテロ事件。
 このときも、テロ直後の混乱するニューヨークで、生存者などを調べ、在米日本人に情報を流したのは、現地企業であり、日本大使館ではなかった。
 ひ弱な花は、修羅場に弱いのだ。

 けれど、外交とは、「会議は踊る」と評されたウィーン会議に象徴されるごとく、舞踏会や晩餐会のエレガンスの裏こそが、修羅場である。
 結論。日本には垂れ流す金はあるが、外交は存在しない。


(2月24日 記)

 モンテレイ・ポスター 3週間のメキシコ滞在から戻ってきました。
 今回は、CDのキャンペーンとライブのためとあって、せっかく3週間もいたのに、取材やリハーサルなどで、ほとんど自由時間がない有様。
 でもおかげさまで、La Jornada、Cronica、El Sol de Mexico、El Universal、Uno Mas Uno、Excelsior、El Financieroなど、ほとんどの新聞でけっこう紙面を割いてもらえました。(日本じゃ考えられない?!)
 とはいえ、私の数年ぶりのソロアルバム。しかも、その間、HAVATAMPAでフェスティバルに参加した以外には、メキシコではあまりライブ活動もしていなかったということで、新聞記者さんたちの関心は主に、「この数年、八木はなにをやっていたか」。

 答えは、日本で、執筆活動中心にやっていたわけですが、いかんせん、拙著はスペイン語での翻訳がひとつも出ていないですから、「で、何を書いていたのか」が興味の的。
 そうなると、中南米の新しい歌のムーブメントを描いた『禁じられた歌』、『危険な歌』はともかくとして、私なりのフェミニズム論である『ラテン女のタフで優雅な生き方』とか、米軍のパナマ侵攻を描いた『MARI』などは、彼らにとっては、超面白いネタなわけで.....またまた、「NOBUYO、日本の女性の地位について語る」だの「米軍侵攻事件を小説に」といった政治っぽい、いかにも派手な見出しがついてしまうのでした。
 どうも、わたしは、政治的センセーショナリズムから縁が切れない。(笑)

 パンチョ・ビージャの家 それはそれとして、今回のライブ。
 モンテレイのアートセンター主催の公演は、天才ギタリスト、フェリペ・バルデスくんと組んでのコンサートで、二人きりのステージながら、フルに2時間近くとあって、わたしの持ち歌のほかに、フェリペのもっとも得意とするキューバのフィーリン(ロマンティックな歌曲)をいくつもいれてみました。これが、自分で歌っていてじつに気持ちよいのです。まあ、フェリペの見事に壺にはまったギターが良いせいなのだけど。
 ただし、アートセンターそのものが、町外れにあって、しかも、隣接したホテルに宿泊だったため、文字通り、ホテルと劇場の往復のみで終わるかと思ったら、当日のライブのあと、モンテレイ最大のライブハウス『Casa de Pancho Villa』のオーナーからのご招待が。 (メキシコのライブハウスは夜が遅くて、深夜に始まることもしばしばなのです)
 最大というだけあって、バンドも私たちが到着した夜11時を過ぎてからだけでも、5組の出演。この日のライブはみんな地元のアーチスト&バンドでしたが、弾き語り系、プロテスト系、南米フォルクローレ、ドミニカ人のメレンゲ・バンド、キューバ音楽とバラエティも豊か。
メキシコポスター 店の名のパンチョ・ビージャは、北部の義賊の首領でしたが、メキシコ革命に馳せ参じて、政府軍を蹴散らした英雄のことで、このオーナー氏も、絵に描いたような太っ腹な北部男。 店がでかいだけではなくて、雰囲気もとっても熱い。(そして「軽いおつまみ」の量もすごい)。 乞われて、飛び入りでステージに上がって、歌ってしまったぐらい気持ちのいい空間でした。

 それから、レコード会社主催のメキシコ公演は、コヨアカン地区の民衆文化博物館での野外ライブ。こちらは、ギターのフェリペに加えて、ピアノにペペ・モラン、パーカッションにナチョ・モンティエルという、いずれもCDに参加してくれている手練2人が入って、トリオでの伴奏です。
 まずレコード会社ペンタグラマの名物社長モデスト・ロペスが挨拶し(笑)、さらに、今回のCDの発端を作った男、詩人で作曲家のマルシアル・アレハンドロの司会(笑)で、 ライブの幕が開きます。
 日曜の午後、しかも野外ということもあって、おかげさまで会場は満員御礼。
 記者の人たちや友人達も顔を揃えてくれて、とても楽しいコンサートになりました。この日にも、ラジオの取材一本。
 みなさん、どうもありがとう。
 来週ぐらいには、政治ネタとは別の、八木のライブ評が、いろいろな新聞に出てくることでしょう。
 前述のモンテレイや、今回、スケジュール的な制約のために決まらなかった数都市も加えて、また、コンサートツアーが決まりそうであります。


(1月29日 記)

 数日後にメキシコに旅立ちます。

 よく、周囲から、「たいへんですね」とか「お忙しいでしょう」といわれるのですが、じつはあまりそういうことはありません。
 なんたって、元パックパッカー。もともと旅が好きだし、慣れてもいるから、行き先がアフガニスタンであろうと南極であろうと、単に嬉しいだけ。

 とくに、最近はインターネットのおかげで、たいていのことは簡単に検索できてしまうので、らくちんです。飛行機の乗り継ぎで、今回は帰路でアトランタに一泊するのだが、空港近くの高級ホテルがキャンペーンで、ホームページから予約すると格安ホテル並の値段になっているのを見つけてネット予約。
 じつをいうと、ほんとは、空港に着いてからインフォメーションで調べて、飛び込みで安いモーテルとかBB(民宿)に電話するとかいう、きわめて行き当たりばったりなのが、いちばん好きなのですが、今回は、荷物が色々あるので、大事をとることにしたわけ。

 はじめて行くところでもその調子だから、ましてや、メキシコだのキューバだのという住んでいたところだと、いわゆる勝手知ったるなんとやら。だいたいマイホームがあっちにあるのだから、極端に言えば、飛行機のチケットとパスポートさえあれば、手ぶらでもいいわけで、ある意味、銭湯より手軽なのです。

 では、長期で家を空けても、なにも問題はないのか、というと、それはそれでないとはいいきれません。
 新聞を止め、ご近所に連絡しておく、というようなのは、まあ常識として。
 最大の問題は、冷蔵庫をほぼ空にしておかなくてはいけないこと。

 そうなんですよね。保存性の高いもの以外は、お腹に入れてしまうしかない。
 というわけで、長期旅行の1週間ほど前から、冷蔵庫の中のチェックと、効率のいいさらえ方の研究(笑)がはじまるわけです。
 外食をすることなく、最後に綺麗に冷蔵庫が空になるように計画をたてる。冷凍室もある程度、整理する。
 といっても、食材がそうそう都合よい分量で残っているわけはないから、なるべく新規の食材は買わないで、冷蔵庫や冷凍室の在庫食材に乾物や缶詰で、ときには苦し紛れの創作料理を作る羽目になるのだけど、それがえらく当たりで美味しかったりすることもあります。

 今日作ったのも、まさに苦し紛れに思いついたメニューで、レンズ豆と白菜のスープ。
 玉葱のみじん切りを炒めて、レンズ豆(以前にメキシコから持って帰ってきた乾燥豆)と水とスープで煮て、豆が柔らかくなったら白菜を切って入れ、最後に牛乳をいれてふつふつしたら出来上がり。スープは去年のクリスマスの伊勢海老の殻を煮た出汁を冷凍しておいたものの残り。
 自分で言うのもなんだけど、一口食べて、思わず、「旨い」とつぶやいちゃうおいしさでした。これ、今後の定番メニューに決定。
 ふだんは、自分がすでに知っているメニューを作ることが多いから、案外、意外な組み合わせがえらく美味しかった的な創作ものは、こういう旅直前のどさくさに生まれることが多いのです。

 結局、つねに旅は楽しいのです。わたしにとっては。


(1月27日 記)

 昨日、ちょっと面白いイベントを見てまいりました。
 朗読美術館と題して、メキシコの女流画家フリーダ・カーロの生涯を語る朗読会。女優のたかべしげこさんの朗読と、箏の野坂惠子さんの二人舞台です。

 フリーダ・カーロは、メキシコの国民的画家ディエゴ・リベラ夫人にして、自らも画家であり、また、学生時代の交通事故の後遺症に生涯苦しめられながら、恋愛と創作に精力的に生きた女性として、近年、再評価されているひとで、そのことは少し、拙著『ラテン女のタフで優雅な生き方』にも書いています。私のメキシコのコヨアカンにある家のすぐ近くには、フリーダ・カーロの住んでいた家(いまは美術館)もあります。
 要するに、私にとっては、非常に親近感のある人というわけ。

 実をいうと、行く前はちょっと心配でした。
 朗読はわかるとして、箏をどうやって合わすの?
 もちろん、野坂さんは、ある意味では、いまの日本の現役の演奏家の最高峰におられるといっていい数少ない一人です。二十弦箏、二十五弦箏を開発した人でもある。海外での活動も多い。
 でも、フリーダ・カーロのイメージと合わせると、どうも、ぴんとこない。

 それでも、冷たい風に負けずに(雪になるかもという予報にも負けずに)、出かけていった甲斐はありました。
 とても水準の高いコンテンポラリー・ミュージック。朗読の言葉との絶妙のコンビネーション。けっして出過ぎず、それでいて、効果的。
 あれだけの演奏家(テクニックの高さには定評のある方です)なのですが、いや、だからこそ、その抑制の美の見事。
 メキシコやラテンアメリカを敢えていっさい意識しない、まったくの無国籍なメロディも、日本語の朗読やフリーダの絵のスライドを浮き立たせ、かえって違和感のない世界を作ってくれます。

 というわけで、とっても贅沢な空間と時間を楽しんでまいりました。


(1月26日 記)

 またまたフジモリ氏が、ペルー当局から新たなる罪状で手配されましたね。
 とはいっても、日本政府の見解としては、引き渡すつもりはないようです。理由は簡単で、ペルーと日本との間には犯罪人の引き渡しに関する国際協定はないので、国際法上も引き渡す必要はないと。
 たしかに、それは正論です。

 ただ、そこまで国際法を尊重するとなると、アメリカとアフガニスタンの間にも犯罪人の引き渡しに関する国際協定はありませんでしたから、アメリカはタリバン政権に対して、ビンラディン氏の引き渡しを強要することはできませんでした。
 また、国際法では、いかなる紛争にたいしてもまず平和的な解決の努力を義務づけていますし、報復のために戦争を起こすことを認めていません。「犯人を引き渡さなければ武力を行使する」というブッシュ大統領の主張は、それ自体が、国際法違反です。
 日本政府はそのときに、アメリカに対して、そう主張するべきでした。
 ところが、小泉首相は、ブッシュ大統領の尻馬に乗って、アフガン攻撃に参加したわけです。これをダブルスタンダードと言わずしてなんと言おう。
 こんな大人が行政を司るなら、子供に「正々堂々」なんて誰も言えないよな。


(1月9日 記)

 厚顔無恥という言葉は、彼らのためにあるのだね。
 ひとりは、あのチリの貢がせ妻。それから、もう一人はアルベルト・フジモリ。

 前者は、それでも、貢いだ男と、あれだけくすねられててもわからなかった役所にも責任があるから、ともかくとしても、後者の方は、ついに講演をやっちゃうというのだから、えげつない。(拓殖大学というところが、「さすが」だけど)

 ちなみに、なんでこれが非常識なのかを数字で、説明。

 ペルーの人権団体の連合会の報告によると、1980〜92年に、ペルーの治安部隊に殺された人の数は数千人にも及ぶという。(その中には無実の人々も多く含まれている可能性大)。またテロの容疑者が(容疑者らしいというだけで)拉致され、その後行方不明になった例もあるという。
 要するに、フジモリ政権下、ペルーは国連で報告される失踪者数が世界一の国になっているのだ。

 そして、言うまでもなく、彼は、自らの国籍を偽って大統領職に就くという、国際的にも例を見ない、一国の憲法そのものを無視する暴挙を行った。これがどれぐらいえぐいことかは、たとえば、小泉首相の国籍が、じつは韓国だったとかアメリカだったかいうことになれば、どれぐらい、日本にとって問題があるか、ちょっと想像すればわかるだろう。
 やっていいかどうかとかいう問題ではなく、あってはならないことを、彼はやったのだ。
 そして言うまでもなく、現在、ペルーでは、汚職と人権侵害の容疑で逮捕状が出ている。

 そういう人間を、「でも日本国籍を持っているそうだから」と、おろおろ匿う日本国のバカぶり(一度は、彼をペルー国大統領であると認めた以上、仮にあとで彼がぬけぬけと「じつは日本国籍を....」と抜かしたところで、それを断じて認めてはならないのだ)にも恐れ入るが、そのうえに彼を庇護して、講演までさせちゃう、その神経。いや、サッチーなんて足元にも及ばないよね。


(1月6日 記)

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 この新年から、BBSを作らせていただきました。
 というのも、このmonologueコーナーを作ってから、なんか、一方通行だけじゃない情報交換があってもいいな、と思ったのと、メールで質問などを寄せていただく方にお答えしなければと思いながら、仕事の方が忙しくて、ぜんぜんお返事ができなかったり、結果的に似た内容のご質問にほとんど同じ内容の答えを送るのってなんだかなあ、と思ったり、また、他の方にも読んでいただいたり、一緒に考えていただきたいような素敵なご意見を頂くこともあるので、思い切ってみたわけです。このmonologueに書き散らしている事へのご感想も大歓迎です。
 もちろん、こちらのほうも、仕事の方が忙しくてフォローしきれない時はあると思うのですが、質問や感想などは、できるだけ、こちらのほうに、書き込みお願いいたします。

 さて、私はというと、大阪の実家に戻って、なんだか、朝から晩まで食べ続けていました。
年に何回かしか顔を合わせないと、親というものは、子供にモノを食べさせたいようで、これって、とても本能的な行動かも?
 おかげで、さきほど帰ってきても、まだ、おなかがいっぱいだ。7日に七草粥を食べるという先人の知恵は、偉大なものです。
 そういえば、以前、確かどこかで読んだのだけれど、ヨーロッパやアメリカ大陸は、一般的にカルシウムやマグネシウムなどのミネラルを豊富に含んだ硬水なので、肉料理に適しているし、また、自ずから(水を摂るだけで)、ミネラル分の補給ができる。一方、世界的に見てもめずらしい軟水の日本では、こんぶ、かつおなどの微妙な味わいの出汁文化が発達する一方、水でミネラルを補給できないので、意図的に海草や小魚などのカルシウムを摂取しなければならない。最近の日本で、骨粗鬆症が急激に増えているのは、軟水の水であるにもかかわらず、食生活だけが洋風化したためである.....という文章は、まさに目から鱗で、私の長年の疑問を氷解させてくれました。
 だって、キューバでもメキシコでもアルゼンチンでも、小魚も海草も食べないのに、骨粗鬆症なんて聞いたことないんだもの。
 あっちで飲むとおいしいハーブティーも、どうも日本ではいまいち間抜けな味。逆に日本茶はあちらではおいしくない。
 それに、あちらでは、ほんとに野菜をほとんど食べない人がけっこういるんだけど、それでも、みんなそれなりに健康だったりする。どうしてビタミン不足にならないのかぁ、と思っていたのだけど、こちらの方は、食事に必ずついてくる煮豆(フリホーレス)で補っていたわけね。
 というわけで、いつのまにか、私は外国で日本食を食べたいとは思わなくなったし、日本にいるときにことさらメキシコ料理を食べたいとは思わなくなったけれど、要するに、その土地の伝統料理が、一番、味も体にも良いってことみたいです。
 ということで、暴食に疲れた胃に、今日は、茶碗蒸しでもつくってみようかな。


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