八木啓代のひとりごと 2004年度上半期

(6月28日 記)

 暑いです。
 どこが6月やねん、というぐらいの暑さが続きました。で、そういうときほど、妙に忙しくて、ばたばたばた。汗だくであります。
 ええ、そんな中で、ぱぱぱと手早く作って、おいしかったものを2、3品ご紹介します。

 切り身の魚かなにかを焼いている間、きゅうりを薄くスライスして軽く塩をふっておき、乾燥わかめを戻しておきます。ありあわせのきのこ(えのきだけやヒラタケなど)をさっとゆでて、水を絞ったきゅうり、戻したわかめと混ぜ、叩いた梅干し、砂糖、濃縮白だしと和えます。梅の酸味で疲れがとれるし、暑くてもとってもおいしい。
 おみそ汁の出汁は、私はいりこを使っているのですが、買ったときに頭と内臓を取って、ミルミキサーやバーミックスなどで粉末にしておきます。これを瓶に入れておくと、おみそ汁が、インスタント並みにすぐにできます。来客時や魚の粉が残るのがイヤな方は、お茶パックに入れるといいと思います。うちは、カルシウムを取るためにそのまま飲んでますが。
 魚や肉が安いときに、みそ漬けを作っておいて冷凍しておくのも、忙しいとき重宝します。
 軽く塩をふって、出てきた水気をペーパータオルで拭いてから、味噌とみりん(あと、私は、少量の無糖ヨーグルトを混ぜます)を混ぜたものと一緒にビニール袋に入れて、ちょっと揉んでから、冷蔵か冷凍しておくだけ。味噌は焦げやすいので、指でこそげ取ってから焼くと失敗しにくいです。

 あと、タンドーリチキンもいいですね。チキンやメカジキの切り身などに、塩こしょうして、ヨーグルトとレモン汁、少量の塩、カレー粉(またはカレーペースト、うちではパタックスのExtra Hot使用)を混ぜたものを、同じくビニール袋に入れて、軽く揉んでから、冷蔵か冷凍。あとは(冷凍の場合は解凍してから)、200度ぐらいのオープンで、20〜25分ぐらい焼きます。これ、作っておくと、袋から出して、オ−ブンで焼くだけなので、超楽ちん。しかも、スパイシーなので、暑さ負けしているときでも、とっても美味しいのでした。
 焼き初めて、5〜10分ぐらい経ったところで、なすやパブリカ、かぼちゃ、ズッキーニなど、あり合わせの野菜を、適当な大きさに切って、オリーブオイルをさっとかけて塩を一ふりしたもの(好みでバルサミコ酢も加えてよし)を、オーブンの空いているところに入れておくと、付け合わせも一緒にできます。
 あっさりしたサラダがほしいときは、生食可能なあり合わせの野菜(きゅうり、トマト、アボカドなど)を刻んで、塩、こしょう、レモン汁、ヨーグルト、少量のマヨネーズで和えると、びったりです。

 トマトソースが小分けにして冷凍してあれば、あり合わせの野菜を刻んで、ミネストローネ・スープも、簡単にできて、栄養がありますよね。少し時間があれば、レンズ豆も入れて煮込み、あまり時間がないときは、仕上げにクスクスを少々入れておきますと、ボリュームもたっぷりです。

 あとね。ソーセージも冷凍できるのですよね。生ソーセージやハーブソーセージなどを冷凍しておいて、忙しいときの夕食のおかずというのも、よくやります。寒いときなら、じゃがいもや玉ねぎやにんじんと煮込んでシチューにすれば、時間も短く、しかも暖かいものが食べられるし、暑い時期なら、茹でたのをお皿に盛って、マスタードとポテトピューレですね。
 このポテトピューレ、ほんの一手間ですが、あるとないのとでぜんぜん違います。急いでいるときは、じゃがいもをまるごとラップに包んで電子レンジでチン。冷水でちょっとさましてから皮をむき、潰します。バーミックスなどがあるとすぐですが、なければ、包丁で刻んでから潰すと簡単。それに、塩、こしょうで味を付けて、牛乳で伸ばし、適度な固さにします。いや、単に好みの問題かもしれないんだけど、ソーセージとポテトピューレ、去年チリではまって以来、私は大好き。
 そうなると、添えるのは、キャベツサラダですね。ザウアークラフトがあるといいのだけど、普通はないから、キャベツを千切りにして、塩・こしょう、レモン汁(またはお酢)、好みのスパイス(キャラウェイシードがおいしい)を入れて、電子レンジ強で1分ほどチンします。それから、よく混ぜます。
 ええと、そんなに忙しいのだったら、やっぱり外食とか出前でも取った方が....と思っている方。
 はい、そうです。そういう考え方もあります。
 でもねえ、忙しくて疲れが出てくるときほど、間違いなく美味しいものを、食べたい組み合わせで食べたいと思うのですよ、私は。


(6月20日 記)

 ある飲み会で、ある大手TV局の若手エリートが出席していた。
 ちょうど、話題が、「日本の人質は無事だったのに、どうして韓国の人質は殺されたのでしょうね」
 もちろん、答えは単純ではない。日本人の人質を誘拐したのは、いわゆる「プロ組織」ではなくて、「ゲリラ化した民間人」だったこと。日本人人質が、イラクで、イラク人の立場に立ったボランティア活動を行っていた人たちで、そのことがアルジャジーラなどでも報道されただけではなく、犯人グループもそのことに気づいたこと。聖職者教会が仲介の労をとったこと。エトセトラ。
 なんでもそうだが、「たまたま当たった担当者がいい奴かどうか」ということだって大きく左右する。
 それらすべてが、うまく噛み合ったということだ。
 日本は、いくつものディテールが運良く絡み、韓国のケースは、そうではなかった。
 もちろん、橋田氏が殺されたように、イラクの状況が、ほんの数週間の間に、比較にならないほど、状況が悪化しているともいえるだろう。イタリアが人質を奪回したという事実は、犯人側にも、より厳しい選択を迫っただろう。

 しかし、その記者クラブ詰めが主な仕事であるらしいTV局の若手エリートは得意そうにこういった。
「カネですよ、カネ。日本政府は、犯人に凄い金払ったに決まってるじゃないですか」
 もちろん、ジョークでも非難でも「もしかしたら」でもなく、本気で得意げに言っていた。で、彼は、それで自分が国際政治をわかっているつもりであるらしいのは、言葉の端々から伺える。
 確かに、記者クラブ詰めしかしていなければ、自分は権力の至近距離にいて、誰より情報を持っているという錯覚に陥るのだろうな。記者クラブの日本人が、どれほど外国メディアから失笑と軽蔑を買っているか、彼はもちろん知らないのだ。
 そして、日本の国際的地位が、いまや、どの程度、政治的にも経済的にも凋落してきているかも、もちろん彼には見えていないし、やがて日本が「いくらでも法外なカネが払える」状況ではなくなったときに、なにを、どうすることができるかも、答えることはできないだろう。
 しかし、記者クラブ詰めの若い記者がそう思ってしまうということは、記者クラブで会見を行う政府自体が、その程度の外交力しか、示すことができないということだ。
 そして、残念ながら、そういう人たちが国を引っ張り、あるいはマスメディアを動かしているというのが、この国の現実だ。


(6月11日 記)

 佐世保の女児殺人事件。いろいろな識者の意見が出ています。

 自分が小学生のときのことを思い出すと、まず、思い出すのが、「時間の流れがすごく遅かった」ということ。
 ある一定の年齢を過ぎると、時間が坂道を転がり落ちるように早く経っているように感じます。いまだと、なんか、一ヶ月があっという間に過ぎていたりする。(それはボケっと暮らしているからだという突っ込みは不可ね)。一年でも、結構早い。ええっ、あれって、一年前だったの、と愕然とすることもあるぐらい。

   それが、小学生のときは、「来週」というのが、まず、すごく遠かった。
 来年というと、ほんとに相当先の未来だし、大人になるというのは、太陽系が消滅するぐらいの未来に感じたものだったような気がします。
 まあ、いままで生きてきた時間自体が短いのだから、相対的に、いまの一時間・一分も長いということなのかもしれません。

 もうひとつ思い出すのは、あのころって、好奇心が旺盛で、大人のまねをしたくてたまらないということ。もっとも、これはあとになって、あれはそういうことだったのだとわかるのであって、その時点での本人は「大人のまねをしている」と思ってはいなくて、「自分は大人に近づいている」と思っているか、「大人のことがわかった」と思っているわけ。
 その中には、「子供はやってはいけません」といわれるようなことをやりたい、というのも含まれていて、大人の読むような雑誌、というより、大人が子供に読ませたくないような雑誌(要するにエロ本)がこっそり回ってきたりしたっけなあ。

 そういう意味で、ちょっと大人っぽい本を読んで、(他の子は、こんな難しい本は、まだ読んでいないだろう、ボク or ワタシは読んだぞ)と、得意で仕方がないというのも、ちょっとおませな小学生の感覚だ。
 だから「バトルロワイヤル」を、小学生が読んでいたって不思議ではないし、(あの分厚さは、とくに、大人になりたい子には魅力だろう)、たぶん、読んだこと自体が、彼女の「ステイタス」だったのだと思う。

   ちなみに、私も、どっちかというと生意気な小学生だったから、小学生なのに、大人向け文庫本のポーだのメリメだのエラリイ・クイーンだの、あげくにディケンズだのオーウェルだのを読んでは、超がつくほど、くそ生意気な感想文を書いていたものだった。(苦笑)
 何年か前に引っ越しで処分してしまったが、大掃除のときに出てきたそれらの感想文を読んでみると、小学生というのが、思うほど「コドモ」でも「バカ」ではないことに気づいて(というか、思い出して)、驚いてしまった。
 案外、名文を書いていたりするんだな、これがまた。
 苦渋だの、思索だのといった難しい漢字をさらりと手書きで使っているあたり、今の私より、漢字能力が高いのじゃないか。
 で、なにが、「くそ生意気」なのかというと、そういう小学生の私は、そういう「難しい本」を読んで、「大人のことが、あるいは、世界のことが、わかったつもりになっている」ということだった。
 少なくとも、本人はそう思って書いているのがよくわかるわけだ。

 で、その超くそ生意気な、世の中のことは看破したみたいな小学生の感想文を、いまの大人になった本人が読むからこそ、それがわかる。
 つまり、一言で言うと、「キミは世の中のことがわかったつもりになっているけど、それは間違っているよ」ということだ。その時代の小学生の私が聞けば、もちろん同意はしないだろうが。

 残念ながら、子供には、なかなかわからないことが、ある。
 つまり、大人になるということは、単に体に時間を刻むというだけのことではないし、本を読んで、だいたいわかるということと、本当に理解するということは違うということだ。

 小学生の私が理解しているポーもディケンズもオーウェルも、(それがどんなに難しい単語を駆使して書かれていて、文章としては、一見、それはそれなりの完成度のあるものであろうとも)、その理解は、悲しいかな「頭でっかちなコドモの理解」であって、きわめて表層的でしかない。
 なぜなら、よくできた小説はもちろん、現実というもの自体、きわめて複雑な、さまざまな糸が絡み合う布のようなもので、しかも、それは黒でも白でもない、限りない濃淡の違いに彩られた壮大なグレーであるということを、生きてきた相対時間が短いコドモには、実感として理解することが、ほとんど無理だからだ。
(で、それはそれで、同じ本を年を経て読んで、別の(本来の)意味が理解できるというのは、読書の本来の醍醐味といえるが、所詮、どんな名著であれ、本は、読んだ人の知的能力の範囲でしか理解できないということだ)
 だから、理解できるだけの知的能力がなければ、「人殺しはいけない」「人殺しを容認する社会はおそろしい」「友情は重要だ」ということを言わんとする内容の物語であっても、まったく逆に「人殺しのかっこよさ」を描いているように感じてしまうこともありうるということだ。
(まあ、作者がそれを意図しているノワール小説などでなくても、ほんとに悪党のキャラが立ちすぎて、作者の意図ではなくても、悪に魅力を感じてしまう小説もあるけどね)

 では、なぜ、人は人を殺してはいけないのか。

 それは、まさに世の中には、数限りない価値観が存在し、自分にとって命の次、あるいは、命以上に大事なモノであっても、他の人にとっては、なんの値打ちもないものであるかもしれないということ。

 逆に、自分にとってなんの価値もないモノであっても、それは別の人にとっては、計り知れない価値があるかもしれないということこそが、社会というものの中で多様な価値観を持つ個々の存在として生きる大人の人間の、これだけは認めなくてはならない真実であるからだ。

 だからこそ、生きている値打ちのない人間は存在しないし、あるいは、自分がまた、他人にとってなんの価値もない(=違う価値観をもっている)からという理由で抹殺されることがないように、人は人を殺してはならないのだ。

 問題は、コドモが、実感として完全に理解することが無理であるとしても、そのことを、少しでもわかるように語ってあげられる大人が、身近に、どれだけいるだろうか、ということだ。
 少なくとも、この事件で(酒鬼薔薇事件でもそうだったが)、そういうことをちゃんと語った大人はいなかったように思う。

 もちろんその底流として、すでに指摘されているように、核家族で育ち、外で遊ばない今のコドモ(を含む、若い世代)が、すりむけば染みるし、手を切れば痛いにはじまって、死んじゃったおばあちゃんには二度と会えないとか、愛犬のジョンが死んで死ぬほど悲しい日も太陽は脳天気に照っているというようなことに始まって、取り返しのつかない失敗とか死にたいほどの失恋というのは、現実に存在するもので、でも、それが必ずしも不幸につながるとも限らないよ、とかいうことに至る「少し前のコドモが、不条理とムカつくことに満ちつつ、それでも楽しいことやいいこともあるから、存在価値があるのであろう世の中のことを、だんだん学んでいく過程」から、切り離されていているということもあるのだろうけれど。
 でも、そういうことも、昔なら、「年上の親戚や先輩など」から学んだことでもあるのだよね。
 もちろん、シェークスピアを引き合いに出すまでもなく、純粋で真剣なやつほど、失敗や裏切りに直面すると、死にたい(あるいは、相手を殺したい)ような気分になるから、そういうお節介に、ともすれば反発したりもするんだけど、そういうこと自体が、ほんとにキレてしまうことへの、かなりの抑止力にはなっていたと思う。

 加害者の女の子の「バトル・ロワイヤル」理解は、ごくごく表面的なもので、作者が伝えたいメッセージは明らかにまったく、彼女には理解できていなかった。おそらく、小学生向きではない、分厚い本を全部読んだという満足感と、表面的な殺人シーンだけが、彼女の記憶に残ったのだ。

 被害者の女の子が死んだとき、彼女は間違いなく、瞬間的な充足感を得ただろう。

 彼女は狂っていたわけではないと思うし、異常性格でもないと思う。
 彼女は彼女なりに、「殺したい」という怒りを表現しただけなのだろう。

 しかし、その彼女が逆に殺される側であったとしても、世間はやはり同じようにしか反応しなかっただろうし、そもそも、彼女にとって生きるか死ぬかほど重要だったインターネットの書き込みもチャットもアバターも、ここが、シェークスピア悲劇のように、皆が、さもありなんと同調してくれるようなモノでもなんでもなくて、彼女以外の人たちにとっては、文字通りの「どうでもいいこと」以外のなにものでもないのだとということを、本当に実感する精神年齢に達し得たとき、彼女は、自分のやったことの意味が理解できるのだろう。

 しかし、その前に、「なぜ人を殺してはいけないのか」を、コドモにきちんと語れる大人が、ほとんどいないのでは、そもそもいまの日本には、体だけが老いた幼児たちが、大量にヴァーチャル・リアリティの中で生きているといわれても仕方がないかもしれないのだけど。


(6月10日 記)

 ええと、すでにEVENT欄で発表しているのと、BBSで話題にも出ましたので、ご存じの方も多いでしょうが、ライブがいくつか決まりました。
 HAVATAMPAが根城にしてきた六本木PIT INNの閉鎖を、寝耳に水で知って仰天したのは、ついこの間。なんでも、六本木PIT INNが入居していたビル会社が倒産して、別会社の所有となり、そこが再開発を決定したため、ビルの取り壊しと立ち退きが急遽決まったのだそうで。
 はっきりいって、以前、八木が根城にしていた渋谷ジァンジァン閉鎖、大阪のレッドライオン閉鎖に続く打撃です。
 しかし、今回はそのまま放っておくわけにもいかないと、次の根城探しです。
 幸い、赤坂のBflatという素敵なジャズクラブと、渋谷のセルリアンタワー東急ホテルにあるおしゃれな(ちょっとブルーノートみたい)JzBratが、とても好意的に、名乗りを上げて下さいました。
 Bflatでは、ほとんどその場で、スケジュールを照らし合わせて決定。
 JzBratでは、うまくスケジュールが合わなくて、年内のHAVATAMPAは難しいということになったのですが、かわりに八木がライブをすることになりました。
 ちょうど、去年の8月、坂田明さんとのトリオでの活躍などで有名な、凄腕のピアニスト黒田京子さんと一緒にライブというお話があったものの、ちょうどそのとき、お互いにスケジュールの調整がきかず、そのままずるずると延期になっていたのを幸いに、改めて彼女にプロポーズ。快諾していただきました。ひさびさに、アドレナリン充実です。
 彼女がとっても気に入って下さっている私のCDの曲のほか、しばらく前からメキシコでも試みようとしていた「手垢がついたとみんな思っているようなラテン・スタンダードを、いま、あえて、八木の解釈で歌う」というのを、この機会に、ぜひ、何曲かやりたいと思っています。
 是非、皆さん、聴きにおいで下さいね!


(6月9日 記)

 知人に誘われて、すばらしいコンサートを聴きました。
 バイオリニストの戸田弥生さんのリサイタルです。10年前にエリザベート王妃国際コンクールで優勝した方ですが、そういう肩書きは、この際どうでもよろしい。
 曲目は、ベートーベンのソナタで始まり、バルトークとフランク。
 ベートーベンはともかくとして、この選曲は渋すぎる。はっきりいって一般ウケを露とも考えていない。
 で、じつは、私はバルトークはそんなに得意な方ではないのです。バルトークというと、ハンガリーの大作曲家で、民族学派系という紹介のされ方をすることが多いのですが、実際には、不協和音を多用する現代音楽の元祖的な方です。いわゆる「メロディのきれいな」系ではありません。(作品にもよります。晩年のは聴きやすいのが多い)
 で、「ハンガリーの民族音楽を取り入れた」などという解説に騙されて(?)、アルベニスとかサラサーテとかハチャトリアンみたいなのを想像していると、水をぶっかけられたような気になります。
 しかしながら、本日、八木はバルトークに開眼いたしました。すべて彼女の演奏の力です。
 バルトークって、音楽におけるカンディンスキーだったのね。
(ええ、これ、意味不明なコメントですな。申し訳ありません)

 戸田さんの演奏は、きわめて精妙で繊細です。完璧に計算された線と円が絶妙なバランスで配置されているカンディンスキーの絵のように、和音が完璧に計算されて絶妙のバランスで配置されているバルトークを、見事に、まさにそうでなければならないように、というよりも、「そうか、バルトークのやりたかったことはこうなのだ」と理解できるように弾かれます。これが、バルトーク開眼の意味。
 そのうえで、彼女の音は凄い。こういう音を出すパイオリンは、希有といっていいでしょうね。甘くて柔らかくて、深い。
 使っておられるのは、ストラディバリウスですが、だからって、誰でもこういう音が出るわけじゃありません。この音でバルトークなんだもの。痺れましたね。
 そのあとのフランクのソナタは、まさに彼女の音、彼女のうたごころが煌めいた一品でした。

 でも、この渋すぎる選曲では、ほんとに一般ウケをしにくいでしょう。
 けれど、演奏会は、ジュークボックスではありません。自分の知っている(好きな)曲をナマで確認しに出かけるだけ、これみよがしの「私の指はよく動くんだぞ」的演奏に「へぇ〜」と思いにいくだけでは、もったいない。
 ただ、HAVATAMPAのチラシでもそうなんですが、「超絶技巧」という言葉に、とりあえず反応する人は多いんですよね。
 日本の場合。その結果、ただ早弾きができるだけっていうプレイヤーも、ジャンルを問わず、過剰増殖中であります。で、これで、ルックスがよくて、経歴や環境にドラマ性があると、マスコミで持てはやされやすい。
 でも、マスコミの寵児ではなくても、あるいはあなたがコアなクラシックファンでなくて、曲を知らなくても、彼女の演奏の素晴らしさは伝わります。
 TVやマスコミで有名なプレイヤーの方たちの演奏だけを「すごい」と素直に思っておられる方も、そうでない方も、是非、一度彼女の演奏をお聴きになってみてください。


(6月7日 記)

 小泉首相の支持率が下がらないのというので、もう、言いたい放題って感じですね。
 失言というものを通り越して、すでにしばらく前から、暴言モードに入っているという感じです。それでも、べつに支持率が暴落するわけではない。笑いが止まらないんでしょうね。
 閣僚も(いや、もともと小泉氏が選んだ閣僚なのだから、所詮、レベルが同じということなんでしょうが)、同じく言いたい放題。日本国民なめられ放題。
 バカのインフレが加速している感じです。
 そして、その小泉氏は、ブッシュにも金正日にも、なめられている。
 日本はどこに行くのでしょうね。


  (6月3日 記)

 ここ最近、ウイルスメールやスパムメールが激増している。
 うちはマッキントッシュなので、そこそこに気をつけていれば済む程度だけれど、ウィンドウズの人は大変だろうと思ってしまう。
 ウイルスメールに混じって届くのが、広告メール。これの大半は、サーバのスパムカット機能を使って読まずにゴミ箱に直行させているのだが、それでも、敵もさる者で、スパムカットに引っかからないようなアドレスやタイトルで送ってくる。

 その中で多いのは、海賊版ソフトの販売。その次が合法ドラッグのセールスで、どちらも、米国から送られてきているらしい英文メールだ。
 この英文スパムメールには、なかなかの傑作もあって、ひところ何回か来たのは、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の前大統領の親族を名乗り、彼の巨額の隠し財産をマネーロンダリングするのに協力してもらいたい、良い投資になるぞという内容のもの。明らかに詐欺なんだけど、コンゴ民主共和国だの大統領だのの具体的な実名を出すところが、いかにもありそう(にしているつもり)で、笑える。
 コンゴ民主共和国は、以前、私が住んでいた西新宿のマンションの近くの雑居ビルに代表事務所があって、よく前を通ったことがある。いかにもお金がなさそうで可哀相になるようなビルだった。話題になるといえば、内戦とエボラ出血熱と、鈴木宗男氏の私設秘書ムルアカ氏。詐欺のネタにまでされるとは不憫な話である。

 昨日来た笑えるのは、「働いても働いても、サラリーの安いあなたに」インターネットで、学位を取得できますよ、という広告。
 じつはアメリカには、こういう詐欺同然の大学(を名乗る、実態は事務所)があって、試験も実技も面談も、もちろん、実際の授業もいっさいなしで、一見それらしい「卒業証書」だの「学位」だの「博士号」(もちろん、事実を知っている人には、ただのオモチャだが)を出してくれるところがあるのである。
 驚くのは、この事実は日本ではあまり知られていないため、この手のパシフィック・ウエスタン大学だのホノルル大学だのの「偽大学」の学位をほんとに掲げて商売している人がけっこう多い。うさんくさい健康食品を推奨している外国大学卒医学博士や名誉教授などは、ほとんどコレ。
 なんと、この肩書きで、評論家を名乗ってTV出演している人もいれば、ほんものの大学教授にまでなってしまっている人もいるから驚く。
 ふと思いついて検索してみたら、その手の大学の日本語サイト(日本国内の問い合わせ先)もあるから驚いた。

 説明のもっともらしさが笑えるのだけど、せめて、独自ドメインもないところが貧乏くさいなあ。
 ちなみに、その種の大学については、ここのサイトが詳しいので、興味のある方はどうぞ。

 そう思っていた矢先、近所のおばあさんが、「おれおれ詐欺」の被害にあった。
 といっても、かの有名な、電話で「おれだけど....」というパターンとは違って、なんと、対面バージョンだったのだそうだ。
 息子の知人を名乗る、とても真面目そうで人当たりの良い男性が訪ねてきて、「息子さんにお金を貸していて、まだ返してもらっていないのだが、急に自分の方にお金が必要になってしまった。ついては、いま、申し訳ないが、少し返してもらえないか」というような内容。
 まさか息子に限って、と、最初はさすがに信じないおばあさんも、その人物が、真面目そうな顔を曇らせて、「奥さんに内緒のお金らしいんですよ」と言われて、ひょっとして.....と思ってしまったとか。
 なんで相手が、実家の親の家を知っているのだい、とか、いろいろ突っ込みようがあるのだが、まあ、当然ながら、話術は実に巧みであるらしい。

 そんなに真面目そうで人当たりが良く、話術が巧みであるという才能があるなら、詐欺なんかやらなくても、まっとうな仕事で、十分成功できると思うのだけれど、それだけこの世界がボロいということなのだろうか。


  (5月29日 記)

 イラクで日本人ジャーナリスト2名が死亡。
 例の人質バッシングを知って、橋田氏は自分が死んでも、政府に助けを求めるな、本望でしたと言えと夫人に言っておられたという。そして、夫人も、微笑みさえ見せて、そのとおりにおっしゃっていた。
 たしかに、戦場ジャーナリストの配偶者なり恋人を持つということは、そういう覚悟を持つということだ。その点で間違いはない。
 しかし、その点をあまりに強調した報道と、またもや官邸からの自己責任だから云々という言葉を耳にすると、なんだか戦時中の軍国の母を思い出してしまう。
 サマワ派遣の自衛隊員に死者や重傷の怪我人が出たら、家族はにっこり微笑んで「覚悟していたことですから」というのだろう。言うまでもなく、号泣して小泉首相を責めたりすれば、待っているのはヒステリックなまでのバッシングと嫌がらせなのだから。


(5月28日 記)

 あの北朝鮮訪問で、小泉首相の支持率が上がったという。米国ですら、ブッシュ大統領の支持率はかつてなく下落しているというのに。
 それどころか、今度は、拉致被害者家族にも嫌がらせだそうだ。
 なんとまあ、とんでもない国になったのだろうか、この国は。

 この状況で、小泉首相を支持し、人質家族や拉致被害者家族に嫌がらせを行う人々というのは(実際に行動に移さなかったとしても、心情的に、こういう人たちに共感した人々も含め)、おそらく、強い日本が大好きで、日本国民は優秀であると信じ、世界最強国であるアメリカと日本は同格なのだから、ブッシュと電話で話せる小泉氏はすばらしいし、北朝鮮・韓国・中国・その他アジアを蔑視することで、優越感を保つのだろう。
 小泉氏の言葉は、きわめて簡潔明瞭だ。ほとんど感情的かつ直線的な、好き嫌い。だから、誰にでも彼の意見はよくわかる。国際情勢や外交、そのさらに奥にある、違う文化や歴史への理解のうえに立った判断といった複雑なものは、そこに存在しない。現実の世界はきわめて複雑で錯綜した微妙な色合いの綾織りのようなものであるという認識はそもそもない。それを理解するためには、それなりの努力が必要で、それはとても面倒な作業だからだ。
 わからないものは、すべからく「間違っている」か「劣っている」、あるいはもっと直線的に「嫌い」で、すませることができれば、なんの努力も知性も必要ではない。
 そういう意味で、彼はブッシュ大統領と極めて似ていて、だから、親近感を持つのはよくわかる。
 そこにあるのは、おそろしいほどの想像力の欠如だ。
 そういった人々には、直線的にだけ物事を伝え、好き嫌いで発言する小泉首相はとてもわかりやすく、彼の言葉は心地よいのだろう。彼は単に幼児的であるというだけのことなのだが。
 しかし、どっぷりと平和ボケで、TVのバラエティー番組やアニメが生活の主体になっている人たちには、その短絡的な幼児性がとてつもなく快いというのも、またわかるような気がする。
 平和ボケといわれようとなんと言おうと、いまだ日本は豊かであり、手を伸ばせばヴィトンの財布だって手が届く。いったい、これのどこが悪いのだ。
 そういう大多数の声が、小泉首相の後ろにいるのだ。そして、彼もそれを知っている。
 ローマもスペイン帝国も大英帝国ですら、永久に繁栄しなかったように、いつか、衰退の時期が来たときに、日本はどうするのかを考えている人たち、あるいは、その来るべき衰退を少しでも回避または遅らせるために、いま努力している人たちの存在は、彼らの目には入らない。


(5月24日 記)

 年金問題をうやむやにするべく出かけていった北朝鮮。
 じつに頭のいいカードの使い方だと、小泉首相は内心得意だったに違いないが、結果のところは、交渉力のなさを露呈しただけだった。さすが、世界のカモ日本ですね。
 これだけブッシュの子分として、尻尾を振っているのに、ジェンキンズ氏問題ひとつ片づけられないというのには、情けなさを通り越して、失笑してしまう。

 以前にも書いたように、私は北朝鮮との国交回復を視野に入れた交渉と拉致問題に関する交渉は、別に考えるべきと考えている。拉致問題が小さなことではないのは確かだが、だとしても、そのことに引きずられて、もっと大きなことが論議されなくなるのだとすればそれはもっと問題だ。
 しかし、そういう大きな視野に立っての訪朝交渉にしては、タイミングが中途半端すぎる(選挙狙いと年金問題隠し見え見え)。これでは、相手に足元も見られても仕方がない。
 どうせ、選挙対策で、目先の点数を稼ぐのだけが目的だったのなら、それはそれでもうちょっと頭を使えばいいのに、それもやらないから、家族の帰国も中途半端というわけだ。

 もちろん、米国はジェンキンズ氏が来日したら、引き渡しを求めるだろう。
 これだけイラクでの虐待問題がマスコミに取り上げられてしまったし、だいたい、脱走後、良心的兵役拒否を宣言した青年が、こともあろうにヒスパニックで、しかも、メヒア=ゴドイ家の人間だったからだ。
 ヒスパニックは、現在、米国で、無視できない勢力を持つ。
 しかも、日本ではほとんど無視されてはいるが、好きか嫌いか真っぷたつに二分されるとしても、ヒスパニック系で、メヒア=ゴドイ家を知らない者はいない。
 一昨日書いたように、単に、ニカラグアの有名なシンガーソングライターというだけではなく、彼の父カルロス・メヒア=ゴドイは、サンディニスタ革命の英雄であり、革命後は国会議員をつとめた。彼の最も有名な作品である『サンディニスタ賛歌』では、「人間性の敵、ヤンキーと戦おう」とまで歌われる。
 つまり、それが時代のせいであったとしても、いやおうなく、カルロス・メヒア=ゴドイは、好意的に言えば、「中米で、米国の後ろ盾のもとで虐殺拷問を繰り返していた独裁政権と戦った英雄」であり、嫌いな人間から見れば「身の毛もよだつ共産主義者(実際は、サンディニズムは共産主義ではないので、単なる無知による事実誤認)」であり、いずれにしても、きわめて「反米」イメージの強い人間だ。ヒスパニックの人間なら、彼の歌の一つや二つとともに、皆それを知っている。
 その息子が、いま良心的兵役拒否者として、注目を集めているのだ。
 この裁判の判決は延期になったが、それはそうだろう。
 無罪にすれば、その泥沼状態だけに、兵役拒否者は続出するだろうし、どんな内部告発が出るかわからない。米国内の反共勢力も黙ってはいないだろう。
 その一方で、有罪にすればしたで、カミロ・メヒア青年が良心的兵役拒否の理由として主張している、イラクでのアブグレイブ刑務所以外での捕虜拷問問題と民間人虐殺問題に、米国内だけではない、全スペイン語圏が注目することになるのだ。
(註:時間差で知ったが、禁固1年の判決が結局、下されたらしい。ただ、支援団体は乗員での関門を求めている)

 そんな時期に、ジェンキンズ氏問題を持ち出されても、米国は、彼を恩赦にはできない。

 だとすれば、日本政府に唯一可能なのは、断固として引き渡しを拒否することだが、実際問題として、これも難しい。そんな法律は日本にはないし、そもそも日本は政治亡命者の受け入れを拒否しているのだ。ひとつの特例は、ドミノ倒しにたくさんの特例を作ってしまうことになる。同じく、本国で訴追され、日本政府が匿っているアルベルト・フジモリにたとえる意見もあったが、この場合、日本政府が盾にしているのは、フジモリがもともと日本国籍所持者であったことと、ペルーと日本との間に犯罪者の引き渡し条約がないことにある。ジェンキンズ氏はそのどちらにも当てはまらないのだ。
(もちろん、強きにへつらい弱気には横柄という、日本政府の本質的なモラルハザードが、この対応の根底にある。断固として引き渡さないと言ってしまえばそれまでだ。金大中事件を起こした軍事政権時代の韓国と違って、米国がCIAを送り込んで、ジェンキンズ氏を実力行使で奪還することはあり得ない)
 それでも方法はあった。日本はイラクの件で、これだけ米国に『貢献』しているのである。今、米国が一番やってほしくないことを切り札にして交渉することで、「もちろん形式上訴追はされるけれど、日本政府は、先に北朝鮮での事情を聞くということにして、なかなか引き渡さない状態で、時効が来るまで時間を稼ぐ」という形で灰色合意できたはずである。もちろん、強いものにへつらうことを外交としか思っていないブッシュのポチに、そのような交渉力はなかったわけだ。 (註:ここにひとつ筆者の誤解があった。現段階では、米政府当局は、ジェンキンズ氏の時効を認めない意向だそうだ。しかし、そこをなんとかするのが、外交交渉というものだろう)

   いずれにしても、国民の税金を大盤振る舞いしてくれたものです。イラクで日本のイメージを高めてくださった人質からはお金を取ったくせにね。

 ところで、マイケル・ムーアが、カンヌ映画祭パルムドール受賞。
 政治的な受賞だなあ。でも、これで、どれだけフランス人が、ブッシュを嫌っているかがよくわかる。


(5月22日 記)

 先にBBSに書いたのですが、改めて。
『サンディニスタ賛歌』をはじめ、『武装するギター』などの革命歌は言うに及ばず、『ニカラグア・ニカラグィータ』や、ニカラグア初のOTI受賞曲『愛しい君の香のように』などのラブソングやコミックソングなど、なかなか幅広くニカラグアを代表するシンガーソングライター、カルロス・メヒア=ゴドイの息子さんの一人がいま、アメリカで話題になっています。

米軍曹がイラク任務途中に兵役拒否 19日に軍法会議

米陸軍の軍曹としてイラク戦争に動員された中米出身の青年が、戦場の現実に耐えられずに兵役拒否を申し立て、19日から南部ジョージア州で軍法会議にかけられる。米軍施設での虐待も拒否の一因にあげており、任務の途中で公然とイラク戦争に反対を唱えた初めての事例だ。ヒスパニック系移民の若者が良心の葛藤(かっとう)に悩んだすえ選んだ道が、軍の手で裁かれる。
(引用は、asahi.com

BBCにはもっと詳しい記事があります。
「ぼくは暴力の道具だった。これからは平和の道具になりたい」
という彼の言葉が、写真とともに大きく紹介されています。

 彼は、カルロスとコスタリカ女性マリッツァ・カスティージョさんとの間の子どもで、両親が別れてから、3歳ぐらいで母の母国コスタリカに移住、その後、USAに移住して10年前に正式な移民として米国籍を取得したようです。が、父カルロスと絶縁状態ということではなかったようです。

 良心的兵役拒否は、ベトナム戦争時に有名になった言葉ですが、今回のイラク戦争でも、出ました。

 基本的に私は、親が立派だから子も立派とは考えない人間なのですが、このケースに関しては、蛙の子は蛙、というか、カナリアの子はカナリア、というべきか。

 軍法会議は19日でしたが、はっきりと、アブグレイブ以外の刑務所での「虐待」についても詳細を証言しているということで、再審理になった模様です。上院での喚問の可能性もあるようです。

 とにかく、友人の家族の問題でもあるので、急遽、ニカラグアに連絡してみましたら、父カルロスが公開書簡を送ってくれましたので、ここに翻訳を掲載いたします。(原文はこちら

愛する息子よ

ばかげて恥知らずな戦争に参加し続けることを拒否するという、君の尊厳と勇気ある行為ゆえに、君が裁かれるであろう軍法会議まで、あと数時間だね。

ニカラグア人としての君の心は、いま、平安であることを私は知っている。君の成長を少しづつ見守ってきた君の両親は、君が子どもの頃から、意志の強い子であることをよく知っている。
だから、いま、君の人生のもっとも重大な時点で、きみが勇気ある行動に身を委ねたまっすぐで勇敢な精神によって、この重い試練にさらされていることを疑いはしない。

君の一族は、君を支えるために、かつてなく結束している。そしてまた、何千ものニカラグアの人々が、路上で、家々で、君の問題への連帯の証として小さな蝋燭をともしている。

がんばれ、息子よ。
神と、君の良心的兵役拒否は尊重されるであろうという希望を信じて、君に抱擁を、私と君を応援するすべての人々から。

君の怒りに感謝する。愛しているよ

カルロス・メヒア=ゴドイ

2004年5月18日、マナグア、ニカラグア
アウグスト・セサル・サンディーノの誕生日に

 原文はもっと名文ですが、翻訳のため、そういった部分が割愛されてしまったことはご容赦願います。


(5月21日 記)

 飲み食いの日々を過ごしていたと思ったら、呑み友達のひとりが脳卒中で倒れ、意識不明状態が続いているというニュースを、別の友人から聞いて、しばし呆然。
 たしかに、太り気味と言っていい体型のやつだったが......まだ40代で、遅い子供が生まれて大喜びしていたばかりのはず。なんてこった。
 何年か前にはキューバとメキシコにも旅行して、楽しかったと言っていた。
 そういえば、春先に恒例のジビエを楽しむ宴会のお誘いが今年はなかったし、先日のHAVATAMPAのライブにも顔を見せていなかったのだが、年度末のことで、てっきり仕事が忙しいのかと思っていた。

 と思っていたら、今度は、中学校時代からの友人から、ここしばらく体調が優れないので精密検査を受けたところ、難病指定されている進行性の病気の宣告を受けてしまったというメールが来た。優秀なキャリアウーマンでもある彼女のその手紙は、彼女らしく、理路整然とした冷静な文面だったが、心中のショックは察するに余りある。

 そういえば、結果的には悪性ではなく、2週間ほどの入院で済んでしまったが、私が卵巣腫瘍で手術を受けたのも、一昨年のいまごろだった。そういう年代にさしかかっているのだ。
 にもかかわらず、喉もと過ぎればで、今年は定期検診を受けていないことに気づいて、愕然とする。


(5月20日 記)

 続くときには続く。飲み食い三昧。

 じつは、先週から、親しい銀座のギャラリーでおもしろい個展をやっているのです。
 陶芸家の坂田甚内氏の作品展。
 甚内氏の作品は、ガラスからオブジェにも及ぶ、かなり枠の広いものなのですが、ここでは、氏の原点(?)に近い、一見素朴な小品展。
 で、ここで、氏の焼いた黒陶と漆細工の器で飲む酒が旨いというので、酒にうるさい某レストラン店主と利き酒会を、画廊でゲリラ的にやってしまいました。
 栃木の日本酒とフランスの赤白ワイン、その他。

 いやあ、いいんですかアート作品で。
 いいのいいの、これは実際に使うためのものだから。使っているうちに、また、作品としての味が出てくるのさ。
 なるほど。

 てな感じの盛り上がりでございました。いやほんとに、器でもおそろしいほど味は変わります。
 これは、くいしんぼとしては、しばらく追求しなくてはならないテーマですね。

 で、翌日に、別の打ち合わせで銀座に出たついでに、忘れものを取りに立ち寄ると、偶然、その場に、演劇演出家の佐野碩の関係の方がいらして、話が弾んでしまいました。
 佐野碩は戦中に日本軍の弾圧を受けて、ソ連に逃げるのですが、しかし、そこでもスターリンの粛正を受けそうになって、アメリカに脱出。最終的にはメキシコに亡命して、メキシコで多くの演劇人を育て、メキシコ近代演劇の父とまで言われた人です。
 日本には希有な、真の国際人として生きた人です。
 そして、私のメキシコの呑み友達、いえいえ、いろいろお世話になっている大歌手にして俳優のオスカル・チャベス親父さんは、佐野碩の直弟子なのでした。
「教えてもらえると思うな。自分の頭で考えろ」
というのが、佐野さんの口癖だったそうです。

 家に帰ると、これまた、まったく偶然ですが、チリのビクトル・ハラの友人で、アジェンデ時代に一緒に演劇の仕事をしていたフェルナンデス・クラン氏(クーデターのため亡命し、現在、スペインで絵本画家として活躍中)から、最新の彼の絵本が届いていました。
 絵本といっても、子ども向けではなくて、大人向け。ちょっとセクシャルでもあって、にやりとさせる感じ。
 世界は狭いということ。
 妙に実感。


(5月17日 記)

 食べ物の話題が続きます。
 単なる偶然ですが、友人のプレゼントで、ここ数年愛用していたコーヒーメーカーが、壊れてしまいました。
 で、新しいのを買おうとして、以前、スパニッシュ・コネクションのリーダーにして名ギタリスト、伊藤芳輝さんの家でいただいたコーヒーがすごく美味しかったのを思い出しました。彼が言うには、「コーヒーの味は、高い豆より、かしこいコーヒーメーカー」
 まあ、ほんとは、上手な人が手でドリップするのが一番美味しいのは確かなのですが、朝にそんなこともしていられない。というわけで、コーヒー専業メーカーのコーヒーメーカーを買うことにしました。ちょうど、メリタの新製品で「一杯からでも美味しい」というのをネットで見つけて、即注文。
 これが、当たりなんですわ。ほんとに同じ豆かよと言いたいぐらい、コーヒーはほんとにコーヒー・メーカーで変わります。
 使い勝手は、はっきりいって、以前使っていた日本の有名家電メーカーの製品には遙かに(といっていいぐらい)劣ります。分解しにくいし、カップにコーヒーを注ぐときにも、滴がこぼれやすい。
 そのへん、さすがに日本の家電メーカーは、お客様の使いやすさを研究しています。
 が、それを補ってあまりある、この味と香りの違いは何。すべて、許すぞ。

 こういうことがあると、以前に書いた「素材」より「技術」というのがひしひし実感されますね。
 名人でも匠でもない、われらシロートとしては、「そこそこのお道具」ということでしょうか。
(ええ、これは技術力の高いプロ用の道具を素人が使えということではなくて、素人でもうまく作れるために開発されている道具という意味です)
 そういえば、やはり、分厚いホーロー鍋で煮たマーマレードはおいしかったし。
 これからは、調理製品を買うときには、変にケチるのはやめようと、深く実感。まあ、しょうがないときもあるんだけど。


(5月16日  記)

 あまりの政治的茶番の連続に、ほんとに脱力します。
 怒ってばかりいても胃が悪くなるだけだし、深刻になりすぎて鬱状態になっても仕方なりそうなので、買い物に出たら、先日、なぜか、近所のスーパーでムール貝の特売。
 ムール貝の特売って、初めて見ましたが、えらく安すぎる。そもそもその店では、ムール貝を扱っていたことはない。間違って仕入れたか、間違って入荷したか。
 ということで、急遽、パエジャを作ることにしました。

 イカとパブリカを買って、冷凍室の海老と手羽先を解凍。サフランをお湯につけておきます。
 私の本(ラテンアメリカ発くいしんぼ一人旅@光文社mm文庫)には、料理経験値がきわめて低い人でも炊飯器でパエジャを簡単に作る方法が書いてありますが、どうせだから、もうちょっと本格的にやります。
 といっても、パエジャ鍋などもっていないので、テフロン加工のフライパンです。ホットプレートとか土鍋でもいいと思う。
 まず、鍋に洗ったムール貝と白ワインを入れて、口が開くまで加熱。
 それから、フライパンにみじん切りのにんにくとタマネギ、適当に切った材料をオリーブ油で炒め、それから、お米(26cmのフライパンで2合が適当、2〜3人前)を入れて炒めます。
 海老、イカ、鶏肉を美味しく食べたい人は、お米を入れる前に、これらの素材を別に取り置きます。素材を美味しく食べるより、ご飯に海鮮の旨味がじっくりしみこんでいる方が好きな人は、これに缶詰のトマトのざく切り少々を加え、そのまま一緒に煮込みます。単に好みの問題です。
 サフランを漬け込んで黄色くなっているお湯に、スープの素と塩胡椒で味をつけ、それとムール貝から出た汁を、材料がひたひたになる程度に入れて、1分間ぐらい軽くかき混ぜながら強火。それから弱火で、ふたをして10分ぐらい。白米炊きと違って、途中で蓋を取って様子を見ても大丈夫です。ふたがなければ、なくてもOK。水分を多めにします。
 鍋によって、水分の蒸発量は違うので、米にまだ芯が結構あるのに、底が焦げそうになっていたら、水を少し足したらいいです。
 最後に、取っておいたムール貝を飾ると、きわめて本格的。
 簡単で安上がりなわりに、すごく豪華なごちそうを食べる雰囲気があります。

 パエジャを作った翌日には、竹の子とわらびをいただいてしまいました。
 春の山菜は美味しいのだけど、あく抜きが面倒くさいのよね。

 とにかく、竹の子は皮をむいて、でかい鍋で、お米のとぎ汁でことこと。
 わらびは、重曹をまぶしてから熱湯をかけて、そのまま一晩。漬けていた水が、見事なビリジアングリーンに変わっています。野生の力はすごい。
 で、竹の子は先を煮物に。残りは中華。わらびはわらびご飯。

 鶏のもも肉を、一晩、味噌漬けにしておいたものをオーブンで焼いて、おかずにします。
 この味噌漬け、ふつうのお味噌を味醂と少量のヨーグルトでのばし、好みで少し砂糖を加えた味噌だれを揉み込んで、ビニール袋に入れておくだけです。さめてもおいしい。


(5月15日 記)

 いまさらながら、小泉首相と石原慎太郎都知事の、年金未納発覚。
 小泉氏は、責任はないと言い切るからすごい。
 なんでもかんでも、短いフレーズで断定的に言い切るという手法が、当初、けっこうマスコミにウケたりしたもんだから、もう世の中すべてそれで通用すると思っているようだ。国民もなめられたものだね。
 石原慎太郎氏の「妻が泣いて詫びた」にも失笑してしまいました。さすがベストセラー作家で、裕次郎のアニ。庶民は家族ドラマにすぐ涙してくれると思ってくださっているのですね。都民もなめられたものです。


(5月14日 記)

 それにしても、今回、イラク派兵問題に関しては、人質事件のほかに、自衛隊官舎のポストに、イラク派兵反対のチラシを入れたというだけで、75日間も、市民運動家が逮捕拘留され、アムネスティ・インターナショナルに「良心の囚人」と認定される事件があった。
 人質に政府が200万円近いお金を請求し、それが外国で報道されたことで、憤ったある善意の米国人が2千ドルを自分が払うと、米国の日本大使館に小切手を届けたところ、この小切手が突き返されたという事件もあった。これは、一部マスコミだけが報じたごく小さいニュースだったけれど、このことで、あの200万円の請求が、「経費負担」などではなく、「見せしめ」かつ「嫌がらせ」であることがはっきりした。
 で、この良心の囚人たちの保釈金も、3人で450万円。明らかにこれも保釈金の本来の目的である「逃亡の恐れがないようにする」ためではなく、「見せしめ」と「嫌がらせ」のためとしか思えない。
 日本は、腐りかけている。

 もうひとつ驚いたのが、今回のこれらの問題の中で、もっとペンクラブや音楽家などが反対運動を展開するかと思ったのに、それがさほどでもなかったことだ。ある有名ミュージシャンのサイトの掲示板では、イラク戦争がらみの発言をすべて禁止にするというようなこともあったというから、驚いた。

 私の好きなカート・ヴォネガットJr.の言葉で、芸術家の存在意義に関してのものがある。
 生活に必要であるものを生産したり動かすわけではなく、一見、ムダに見える芸術家という職業がなぜ必要なのか。
 で、彼は、芸術家を坑道のカナリアに例える。
 炭坑夫たちが坑内の有毒ガスを感知するために、カナリヤの籠を坑道に持ち込むのは、カナリアが何より早く、有毒ガスに気がついて騒ぎ立て、一番先に死んでしまうから。芸術家も、そのカナリアと同じように、社会に危険が蔓延してくると、いち早く察知して、騒ぎ立て、(ときには一番先に死ぬことになるかもしれない)のが、その役割だと。
 21世紀の現在では、もう炭坑夫たちがカナリアをつれて炭坑に入っていくことはないのだろうが、同時に、別のカナリアも、絶滅寸前なのかもしれない。


(5月12日 記)

 予想されたことではあるけれど、菅直人、民主党代表辞任。
 もともと私は、民主党には冷たい視線しか送っていなかったのだけれど、今回はほんとに失敗したよね。

 もちろん、年金を払っていなかったというのだけで、あそこまで辞めろコールで集中攻撃的にバッシングするか、というところがまた、「日本やのう」というところはあるのだけど、民主党が「2大政党制」を目標に掲げている以上、そして、その2大政党というのが、当然、自民党と民主党のつもりである以上、民主党党首とは、次期首相になりうる立場なのだということを自覚しているのが当然だろう。
 管氏の場合、年金を払っていたかどうかという問題より、その後の対応が、その点で、実にみっともなかった。
「本人もまさか、自分が未納とは思っていなかったので、この急な事態に対処しきれなかった」という声もあるが、首相というのは、大災害や国際問題など、予測もできないような事態にいつ直面するかわからないものなのだ。そして、そういう状況で、どう舵取りして乗り切れるかが、能力なのだ。
 その点で、逆境にもろい、あるいは、予測のできない事態に直面すると頭が白くなるタイプは、首相はできない。
 もちろん、ただ頑迷で安易なだけで、そうやって国家をゆっくり破滅に追いやるタイプとどっちがましかと言われると、苦しいもんがあるんだけどな。
 ということで、次期選挙で、民主党が一発逆転勝利を目指せる秘策を公開しよう。
 「議員年金廃止を公約」
 これしかない。これをやって、ほんとに議員年金を廃止すれば、君たちの夢である2大政党も夢ではないよ。でも、きっとやらないと思うけど。


(5月8日 記)

 「虐待」を、拷問と言い切ったことについて、補足。

 こんなことは自慢になるようなことではないので、あまりいままでに書いたことはなかったが、私は複数の拷問被害者に会ったことが何度もある。ちなみに、例のNHKの番組でインタビューに答えてくれた彼女らも、その中にはいる。

 こういうと語弊があるが、私が会った、エルサルバドルの政府軍に拷問を受けた人たちは、文字通りの残虐な「肉体的拷問」で、体の一部を焼かれたり、切り落とされたりというものだった。当然、被害者たちは、外見的に壮絶な姿となる。
 ただ、救いは、救出された彼らが、精神的には健全さを保っていたケースが多いことだった。指を全部切り落とされても、口に鉛筆をくわえて文字を学び(エルサルバドルのゲリラ兵には文盲の人も多かった)、明るい笑顔で「将来は、貧しい子供のための学校の先生になりたい」と語る人もいたし、耳を切られ、目を抉られていても、リハビリに励んで、笑顔で挨拶してくれる人もいた。

 しかし、そこで、スタッフの医療関係者に聞いたことがある。そこでリハビリに集まっていた人たちは、「程度の軽い」人たちで、本当にひどいのは、「精神的拷問を受けた人たち」だと。
 ただ、そのときは、それが具体的にどういうことなのかは、私にはわかっていなかった。 肉体的拷問だけで、十分に「びびった」からだ。
 それだけで十分、私は悪夢を見るほどだった。

 その後、90年代に入って、アルゼンチンやチリで拷問に遭った人に会う機会が何度かできた。
 とはいえ、これらの国では、その拷問の具体的事実を明らかにしない人が多い。
 ある意味、それをカミングアウトすることこそが、「最良にして唯一のリハビリ」だと言ったのが、プンタ・アレーナスの元政治囚の人たちである。しかし、それができる彼らは、実際には、「少数派」にすぎず、その彼らですら、部外者に、実際に自分がどういう目に遭ったのかを具体的に語ることは滅多にないし、語られたとしても、はばかられる内容のものが多い。

 では、カミングアウトできない人はどうなるか。
 私は、ある時、アルゼンチンで、一緒に仕事をしていた女性が「そう」であったことを知った。
 それ以前から、彼女は、高等教育を受け、非常に知的な女性であるにもかかわらず、ときどき妙に情緒不安定になること、愚かではないにもかかわらず、すぐばれるような嘘をつく虚言癖があること、その他、いくつかの「妙な」ことに気づいていたのだが、話題がそういうことになった瞬間、彼女は突然、なにかが切れたように逆上し、私につかみかかり、おまえなんかになにがわかる、と絶叫したのだった。まさに、猛獣のようだった。
 彼女を切れさせたのは、ある映画についての私のコメントだった。自分を拷問した男に主人公が会い、対決しようとするという物語。そんなことができるわけがない、と彼女は叫んだ。私だって、偶然、会ったわよ。その瞬間、恐怖と屈辱が押し寄せてきて、目の前が白くなるのよ。どうやって家に帰ったかも覚えていない。わかってない人間が、軽々しく政治のことなんかネタにできるのよ。
 その瞬間、彼女は私を心から憎んでいた。彼女を拷問した軍事政権や兵士を、ではなく、彼女にそれを思い出させ、「わかりもしないくせに話題にする」私を。その憎悪の激しさに私はひるんだ。
 彼女はそのとき、錯乱状態で、自分のされたことをいくつか語った。おまえになんかわかるものか、と言いながら。
 正直に言う。彼女の語った内容をすべて信じることはできなかった。彼女がもともと、精神疾患があり、現実と夢が入り交じっているのではないかという気も、しなかったといえば嘘になる。
 それでも、彼女がこの感情を閉じこめ、圧縮していたことに、恐ろしさを感じた。それがすべて事実ではないとしても、このやり場のない激しい憎悪と恐怖が、いつかこの女性を殺すのではないかと思った。
 彼女とはその後、二度と会わなかった。
 彼女が私を避けたし、私も精神科医ではない。また下手に触れるのが、こわかったからだ。

 わかりあえる被害者同士で、被害を語り合うことによるリハビリ。自分に責任があったのではなく、あくまでも被害者であり、しかも、それは自分だけではないのだということを認識することで、精神の安定を取り戻す。
 それは簡単だが、簡単ではない。
 プンタアレーナスの女性たちもそうだった。
 撮影の日、この事実が忘れ去られないためにと、自ら番組出演を望んだ中心的な女性が、土壇場で来られないと言ってきた。姪を空港に送りに行かなきゃいけないの。
 こういう「ほとんど冗談みたいな」嘘は、精神に傷を負っている人の特徴だ。いうまでもなく彼女は、知的な女性なのだから。
 残りの出演者たちは動揺した。
「彼女が出たくないなら、無理強いしたくない」「でも、彼女が言い出したことなのに、ひどい」
 結局、彼女がどうしても出られないなら仕方がないが、仲間が説得しようということになった。
 泣き声で、空港に姪を送りに行かなきゃいけないから、と繰り返すだけの彼女に、皆が電話で話を聞いた。結局、彼女は来た。
 ひとたびその場に現れると、彼女は、「ばかなことをいってごめんなさい」と皆に謝罪すると、前日の知的なリーダーに戻って、見事にインタビューに答えてくれた。
 あれから、30年経っているというのに、傷はそこまで深いのだ。

 もうおわかりだろう。
 まさにイラクで行われていたのは、そういう種類の「人格崩壊」を狙った精神的拷問である。
 私が、聞いたことのある種類のものがいくつもあった。ことさら屈辱的な形態のレイプ写真を撮影したり、自慰行為を強要して嘲笑したり、収容者同士でレイプさせるようなことも含めて。
 そして、この種の拷問は、終わらない。その人の生きている限り、精神的苦痛は続くのだ。

 アルゼンチンやチリの軍事政権には、ナチスからのとらばーゆ組がいるというのは、これも有名な話で、この種の拷問は「ナチス来歴」らしいという話もあって、私も半ばそれを信じていた。

 しかし、今回のイラク事件で、そうではないことがはっきりした。これは、米軍の中枢、はっきりいえば、CIAが「戦略」としてやっていたことだったのだ。

 女性兵士は得意満面で、首輪をつけたイラク人の前で微笑み、写真を撮らせる。
 彼女は、それが上官の命令だったと主張しているらしい。
 そうだろう。上官の命令で、組織的にやったからこその微笑みなのだ。この種の拷問は、拷問する側の、通常の社会生活ならば表には出てこないサディズムと差別意識を目覚めさせる。
 もちろん、たとえ命令であったとしても、彼女の人間としての責任は問われることに間違いはないのだが、トカゲの尻尾切りで終わらせるべきでもないだろう。


(5月7日 記)

 福田官房長官電撃辞任。やるじゃん。
 私は彼が嫌いだが、戦略家であり、また自民党思いであることには認めざるを得ない。

 いまの野党に力がないのは周知のとおりで、共産党は論外として、社民党も消滅寸前、公明党も、協力な野党でいるならともかく、政権与党になるのは、国民感情としてありえないだろう。
 そうなると、唯一のライバルになりうるのが民主党というのも周知だから、ここで民主党の支持率を決定的に下げれば、閣僚がどうであろうと、次の選挙は、結局自民党の勝ちというわけだ。
 べつに内閣官房長官の地位など捨てても、陰からいくらでも動けるだろうし。

 民主党にしてみれば、管代表と鳩山が、国民年金を払っていないというのが明らかになった時点で、いさぎよく議員を辞めるぐらいの態度をとって、攻撃側に回れば、国民の閣僚吊し上げは当然エスカレートし、うまくすれば、そのまま内閣解散・総選挙に持っていけたかもしれないというのにね。
 まあ、これで、民主党も地に落ちましたね。

 それにしても、「うっかりミス」で言い訳する人が多いのには、ほんとにうんざりする。
 国民年金は「民間の積み立て保険」じゃなくて、「賦課方式」なんだってば。

 わたしゃ、政治家でも経済関係者でもないが、「賦課方式」というのは、「自分のために積み立てているのではなく、いま自分が払っている年金が、いま受け取っている高齢者に回されている、そういう順送り的互助形式」ということぐらいはわかっているし、そのつもりで払っている。
 万一、私の時代に日本経済が完全崩壊して年金がなくなったら、それはそれで痛いけど、それとこれとは別問題だと認識している。いちおう、いろいろあるにせよ、戦後日本を支えてきて、ここまでの発展を作った世代に対して、それを甘受している世代としては、それぐらいのことはするべきだろうという義務感がかなりあるからだ。
 同じ理屈でもって、いままで「日本国政府を信頼していないし、年金も当てにしてないから」と、払っていなかったやつに、払わせるようにしたことだってあるんだぞ。

 で、その「賦課方式」という言葉の意味をわかっていれば、議員になったり閣僚になったから、払わなくていいなんてことがあり得るわけがないし、百歩譲って、役所にそういわれたとしても、「それが本当なら、制度上の欠陥だ」と考えて、年金法案以前に問題視するべき。
 「うっかりミス」をいう人は、まさに、「年金問題について、まったく仕組みを理解していなかったし、理解しようともしていなかった」ことを露呈しているのだ。
 だったら、なにを勉強していたの?
 こういう連中に、議員として年金を論議する資格はない。

 私は個人的には、年金改革としてできることは、厚生年金被保険者の配偶者の優遇処置をやめることと、社会保険庁に差し押さえも含む強制徴収権を与え、税金並みにすること。もちろん、脱税に追徴課税があるように、年金にも、たとえば10年払っていないなら10年分を利息付きで強制徴収し、なおかつ、強制徴収対象者には、10年分を払ったとしても、その半分の5年分しか算定期間に組み入れないぐらいのことをやるしかないと思う。収入が少ない人や事情がある人には、ちゃんと正規の免除規定があるのだから、それが一番公平だろうね。


(5月6日 記)

イラクでの捕虜虐待。
ばれて、あわてて釈明。
これって、「虐待」とかいうレベルではなくて、立派な「拷問」以外のなにものでもないだろう。
それも、かなり醜悪な。
「女性収容者との性行為」って、それは他でもない「レイプ」だろうが。
CIAが指示していたという時点で、それは、立派な「組織的犯行」だろうが。

はっきり書けよ。
CIAの支持で、米軍が組織的に捕虜となったレジスタンスのイラク人に対して、「凄惨な拷問を加え」、「レイプ」し、20人以上を「殺害した」と。

こういう言い換えで、ちょっとでも「罪が軽く」みえるように報道しているのだとしたら、(いや、「だとしたら」というより、拷問という単語はじっさい、イラクのフセイン時代を語る報道などでは使われているのだから、明らかに偽善的な言い換えだ)、なんか、ほんとに救いがない。

80年代の中米では、米軍の後援を受けているニカラグアのコントラや、エルサルバドルの政府軍などのえげつない拷問やレイプや虐殺は有名だった(わりに、もちろん、大きく報道されなかった)。
私は、それらの「捕虜虐待」の被害者に何人も会ったことがあるが、それは凄惨なものだった。
目をえぐられ、顔を焼かれ、両手の指を全部切り落とされた人もいた。(もちろんひとりふたりではない)。性的拷問の内容については、とても書けるようなものではない。
はっきりいって、単なるボランティアとして会っただけの私が、あとで悪夢を見るようなものだった。
救いは、国際赤十字によって救出・保護された彼らが、体と精神に残された恐るべき後遺症に向きあって、前向きに生きようとしていたことだった。

チリやアルゼンチンでは、そこまでえぐくはなかったが、それでも、軍事政権下での拷問はかなりあった。外見的にはわからなくても、度重なる暴行などで内臓器官をやられて、体がボロボロになり、釈放後、その後遺症で死ぬケースがかなり多かった。もちろん、女性へのえげつないレイプも多かった。その結果としての精神障害を抱える人には何人も会ったことがある。
イラクのケースはどちらかというと、こちらに近いのだが。

で、あれも、コントラや政府軍が勝手にやっていたのではなくて、幾分か(もしかすると、かなりの部分)はCIAの指示だったのだろうね。いま、思えば。
なんと醜悪なことだろう。

そして、拷問やレイプを受けた人たちが、どうか、立ち直ることができるように。
信念と信仰が、その助けになることを願う。


(5月4日 記)

 ここ数日、ちょっと考えていたことがあります。
 「自己責任」という、ここ数日で有名になった妙な単語について。

 危険なところに行くことに責任がつきまとうのは当たり前のことで、そんなものは騒ぎ立てるほどのことではありません。
 そういうこととは別に、いかなる場合でも、近代国家である以上、「国家には、いかなる場合でも、最優先事項として、自国民の保護を行う義務」があります。
 だから、退避勧告とは「国家として、自国民の保護に責任は持てませんよ」と通告しているということであって、その退避勧告が出ている場所に敢えて行く自己責任とは、国家が最優先事項として、自国民の保護を行うことができなかったとしても、(つまり、その結果として死んだとしても)、それに関して、国家の責任を追及することはできないということです。
 国家が、最優先事項として、自国民の保護を行う義務を放棄してよい、とか、ましてや、国民を非難する権利があるということではありません。

 いまだに人質非難論を展開する人たちは、結果論だけをもって、「やり方が甘かった」だの「家族の対応が非常識」だのと騒いでいますが、これも、平和ボケとしか言いようのない、ばかげた論法です。
 やり方が甘かったという点については、結果論でなんとでも言えます。こういうのは結果オーライの世界ですから、彼らがもし、ジャーナリストとして、ピュリツァー賞ものの写真でも撮っていたら、英雄扱いだったはず。
 一方で、あのロバート・キャパをはじめ、どれだけのすぐれた、そしてベテランの戦場ジャーナリストが、戦場で命を落としているでしょう。彼らは、「甘くて」「皆に迷惑をかけた」とでもいうのではしょうか。
 戦場とは、誰にも読めないところです。昨日安全でも、今日は死ぬかもしれないところです。
 絶対安全なんてところは、戦地にはありません。
 もちろん、危険をできるだけ避けるノウハウというものはありますが、あくまでもそれは可能性であって、「絶対」はないのです。
 そんなものがあれば、戦場で死ぬ兵士などはおりません。
 100%確実に勝って、イラク人民に歓迎されるはずだったアメリカ兵が、数百人も殺されるというのが、戦争の現実なのです。
 そこを生き残ってきた人、あるいはその中で、歴史に残るようなショットを決めたカメラマンが、「ベテラン」といわれる存在になるわけです。
 それを、うまくいけば褒めそやし、失敗すると罵倒するというのは、大人の対応ではありません。
 ましてや、人質になるという体験そのものが、彼らにとっての不運と未熟さによる痛い経験だったのですから。

 家族の対応についても、「これが自分だったら、妻にはあんなことはさせない」と偉そうにコメントしていた方がおられました。
 ええと、これまた結果論ですからなんとでも言える、というのは置いておいても、配偶者は自分の選択の結果だが、親子兄弟関係はそうではないという、現在の社会を構成する、根本的なことがわかっていらっしゃらないようです。親兄弟が常に自分の思い通りに行動してくれるなら、誰も苦労しないでしょう。
 まさに、なんの関係もない犯罪者の親兄弟親戚縁者にまで嫌がらせをする、おぞましい日本社会の縮図のような意見でした。こういうときに、人間の品性というか、知的レベルがよくわかります。

 いずれにしても、責任という言葉それ自体に、「自分にとって」という意味合いは含まれていますから、本来の意味からしておかしな言葉です。したがって、翻訳もしようがない。
 こういう言葉をわざわざ使うということは、それだけ、日本人は、「自分の言動に責任をとる」ということに対して、無頓着であったということでしょうか。
 たしかに、垂れ流しの公共工事にしても、国民年金未払いの政治家にしても、自分の言動に責任をとるということがない。
 というか、問題があれば、運の悪かった誰かのせいにして、それをスケープゴートにして徹底的に叩き、そうでなければ、みんなのせいということにして問題を限りなく薄め、自分の言動に責任をとらなくてもよかったというのが、太平洋戦争の結末だったのですから、それも仕方がないのかもしれません。
 そうやって、言論にも主張にも政治にも責任をとらない。

 なぜ、日本人は北朝鮮があんなに嫌いなのか。
 それは、まさに、自分の姿を鏡に映したカリカチュアを見ているような同族嫌悪を感じるからではないのか。
 なぜ、日本人は、昭和天皇をあんなに愛したのか。
 あのお方の存在ほど、すなわち、あの「自らの言動に対する無責任さと責任転嫁の完璧さ」ほど、自分の言動に責任を持たない(持ちたくない)人たちにとっての見事な救済はなかったでしょう。
 だから、あのお方の存在は、多くの無責任な人たちにとって、究極の免罪符だったし、これからもあり続けるのでしょう。

 その結果、「賦課方式」というシステムである以上、その制度の意味を少しでも理解していれば、国会議員や閣僚が払う必要がないというようなことがありえるはずもないとわかる国民年金も、払わないでいいと「都合良く勘違いして」、払わなかった人たちが日本の中枢にいて年金を論議し、議員を辞めようとすらしない、ブラックな現実を作り出しているのでしょうね。


(4月18日 記)

 無能な人間ほど、自分が何もできなかったときに、責任を他人に転嫁する。
 そして、愚かな人間ほど、そういう低次元な責任転嫁に簡単に引っかかる。
 そして、そういう人間がどうしたか。
 江戸末期の攘夷派は大量の殺戮をもたらし、太平洋戦争末期には、終戦交渉もできずに広島と長崎原爆投下を招いた。
 そういった歴史の教訓から学ぶことを知らない民族とは、どういうものか。
 そういうことが本当によくわかった数日間だったとしか言いようがない。

 テロリストとの交渉はしないという、小泉首相のせりふは、まったくもっともだった。
 交渉というのは、それなりの情報力と、分析力と、機敏な判断力と知性がないとできないものだからだ。
 もっとはっきり言おう。情報力もなく、分析力もなければ、状況判断もできないようなバカには、交渉などできない。
 たんなる愚かさから発せられる強硬論ほど、しかし、現実を見たくない、というか、現実を把握する能力のない、もっと愚かな連中の耳には快く響く。一時的に、自分は強くて、かっこいいという錯覚に浸れるからだ。チンピラやくざが、弱いものを脅すように。

 別にこれは誹謗中傷ではない。
 小泉首相は、すでに、はっきりと発言している。
「自衛隊の派遣されるサマワは、非戦闘地域なので、危険はない」
「イラクにおいて、戦闘地域と非戦闘地域の区別など、自分にできるわけがない」
 これが事実であるならば、イラクは、原則として危険はないはずであって、政府の退去勧告というのが、そもそも矛盾しているわけだ。そんな退避勧告に、意味があろうはずがない。
 人質になった人々や家族を誹謗中傷する卑劣な人たちというのは、その程度の論理もわからないとみえる。
 そして、こういう人たちの常套句。「みんな、そう思っています」
 それはそうだろう。「みんな、そう言っている」から、赤信号だって渡れるし、みんなやっていたら、リンチにでも虐殺にでも参加するが、あとになって、行動を非難されると、「自分は騙されていた」とかなんとか、責任逃れをするのだろう。要するに、人の尻馬に乗っかって、池に落ちた犬に石を投げて喜んでいるような、最低に卑劣で幼児的な人間だからだ。
 100歩譲って、彼らがタダの脳天気なバックパッカーであったとしても、国家には、彼らを保護する「義務」があるのだ。それが、「近代国家主義」の大原則であることすら知らない人が日本の大多数であるという無知には、愕然とする。
 なにより、人質家族に浴びせられた誹謗中傷のえげつなさと陰湿さだけをもって、はっきりと言える。
 あの連中は、まさしく、日本人のもっとも嫌らしい部分を拡大再生産させた人間のクズである。そして、それゆえに「自称・多数派」なのだ。

 人質救出に莫大な金がかかったという政治家がいた。
 しかし、はっきりいって、「なにひとつ効果を上げなかった計画」などは、それこそ、政府の自己責任なのだよ。
 政府のやったことと言えば、不用意な発言で解放を遅らせた。要するに足を引っ張っていただけで、実際に解放に役立ったのは、「人質自身の経歴」と「官邸前で政府を批判するデモをやった人々の姿」と「イラク聖職者協会の説得」(註1)だったのだ。

 そして、「官邸前で政府を批判するデモをやった人々」にも、「イラク聖職者協会」の中には誰一人、人質になった人たちやその家族に「謝ってほしい」「感謝しろ」などという人はいないことは断言できる。
 そういうことをいう人間は、実際には、「人質救出には何もできないし、やりもしないし、また、その能力もない」ような連中なのだ。
 そして、その最低の連中が、でかい顔をしているのが、この国というわけだ。

 人質の自己責任論を言い立てる人たちがいたが、では、訊きたい。
 そういう人たちは、すべてのニュースが「大本営発表」であるような国が理想国家だと本気で信じているのだろうか。だとしたら、本当に救いがない。
 それが、使命感であろうと、功名心であろうと問題ではない。危険を賭して、敢えて「大本営発表ではないニュース」を求めるジャーナリストがいるから、戦争の惨禍が明らかになり、国家の犯罪や、政治家の汚職や、財界の汚点が白日にさらされ、断罪されることがあるのではないか。
 それが、愛情であろうと、自己満足であろうと問題ではない。危険を賭して、敢えて、困っている人々のために何か行動しよう、と考え、実行する人々がいるからこそ、世界で多くの人が救われ、しばしば歴史さえも動くのだ。
 戦後、まだ日本が貧しかった頃、いったいどれほど日本は、NGOの援助を受けてきたのか、愚かな人たちは、そのことすらもう忘れている。いや、恩知らず、というべきだろうか。

 そもそも、彼らが解放された理由の最大の一つのは、まさに、彼らが、危険を賭してイラクでボランティア活動を行ってきたことについては、誘拐組織も、認めざるを得なかったからだ。
 イタリア人の一人が殺されたことは、誘拐組織が(この点について、結局、八木のコメントは当たっていた)、べつに単なる脅しや、一部の間の抜けた「中東情報通」の言っていたように、金だけを目的に、この事件を起こしたわけではないことを明らかにした。  同じ日本人であったとしても、それが自衛隊員なり、米国の会社に雇われた人間であれば、間違いなく殺されていただろう。
 そういう意味では、小泉氏は、彼らが、彼らの活動のおかげで無事に帰れ、その結果として、彼の政治生命に危機が訪れなかったことを認識し、彼らに感謝するべきなのだ。
むろん、彼は、それどころか、まったく反対の暴言を吐いた。
 いうまでもなく、簡単な論理すらわからない愚かさのゆえに。

 外国であるなら、戻ってきた3人は、英雄のような扱いを受けただろう。
 いやしくも、政府の中枢近くにいる人々が、彼らを非難するようなことはあり得ないだろう。
 情けないのが、もっともまっとうな彼らに対するコメントが、パウエル国務長官の発言だったことだ。

(以下引用)
「危険な地に行くときは誰もがそのリスクを負わねばならないが、もし、誰もが進んでリスクを負おうとしないならば、我々は決して前進しない。世界を前進させられない。だから、私は3人の日本人がよりよい目的のために自ら進んで危険に身をさらしたことをうれしく思う。日本の方々も、こうした市民がいること、そして、進んで危険を負っている自衛隊員のことを誇りに思うべきだ。

そして、もし、その危険のせいで、捕らえられても、『おまえが危険を選んだのだから、おまえの落ち度だ』などと言うべきではない。そうではなく、我々は、捕まった人々を安全に取り戻すことに全力を尽くさなければならない。彼らについて真摯に配慮しなければならない。彼らは我々の友人であり、隣人である。彼らは、我々の仲間である市民なのだから」

関連サイトとして、在米記者で、この言葉を直接聞いた金平茂紀氏のサイトをご紹介する。

 彼らはPTSDだという。彼らの焦燥は、人質になったことよりも、日本という国の政府と国民の、陰湿さと卑劣さのゆえのものだ。
 この国は、病んで、腐臭を放っている。そして、腐臭を放っている人間は、それに気づかない。自分は多数派だと思いこむ卑怯な安心感の中で、弱いもの虐めに快感を感じ、そして、それを利用する政治家に騙されて、国を破滅にと追いやってゆくのだ。

(註1)  ちなみにイラク聖職者協会の英訳は「the Muslim committee of scholars」で、直訳すると、イスラム教義研究者委員会とでもするべきものだ。おかしいなと思って調べてみたら、やはりイスラム教には「聖職者」はいなくて、この場合のscholarは「法学者」という日本語定訳がちゃんと存在するのだそうだ。だとすれば「イスラム法学者協会」。
 なんで、こういう誤訳がまかり通るのだろう。
 さらに、いま話題のシーア派とスンニ派の違いとして、スンニ派では「神の意志とはイスラム法に従うこと」、シーア派では、「イスラームの内面にひそむ精神的実在に従うこと」だという。(引用は、http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/より)
 問題のイスラム法学者協会はスンニ派だから、だとすると、イスラム法学者協会の「ご意見」が、人質解放に決定的な意味を持つというのがよくわかるし、彼らと連絡を取らない日本政府の「ハズしぶり」もよくわかる。


(4月11日 記)

 人質日本人3人の解放が決まったようです。

   人質を殺害すれば、国際的に世論は動揺するでしょうが、それだけで小泉政権が転覆し、スペインのように撤退派の野党が選挙で勝つかどうかという可能性。
 その一方、日本での反イラク(というより、反・反米勢力への)感情が高まる可能性。
 それを天秤にかけたうえでの、選択でしょう。
 もちろん、最大の理由は、イスラム聖職者グループが、この行為を「反イスラム」と非難したということが、決定打だったとしても。

 彼らが、通告窓口としたアルジャジーラそのものが、人質は親イラク的な人々で、自衛隊派兵に反対していた人たちである。だから、死なせるべきではない、というスタンスで報道をしてくれたことも大きいでしょう。もちろん、アルジャジーラに送られた日本からのメールの山も、効いたでしょうし、彼らと人質たちとの対話もあったうえでの結論でしょうから、人質の人たちは、犯人からのメッセージを携えてくることでしょう。
 「テログループ」のほうが、小泉政府より、世論を反映するというのも、すごいなあ。

 この点で、八木の読みははずれましたね。すいません。でも、嬉しい誤算です。
 それにしても、この人質事件の可能性や、こういった形での終焉をまったく予想できなかった「イラク通」というのはなんなんだろうな、というのはさておいて。

 しかし、彼らが解放されたところで、問題は何も解決されていません。
 というより、彼らが、「NGOは敵ではない」という認識を公表した以上、ターゲットは自衛隊となるからです。
 日本人以外にも、カナダ人など、他の外国人NGO関係者も拘束されていますが、同じグループの仕業であれば、おそらく、彼らも解放される可能性は高いでしょう。  犯人グループは、はじめから、「イラクが戦闘状況である」ということに国際世論を注目させる、というだけの目的だった可能性もあります。
 しかし、そうなると、これら一連の騒動は、第一段階の「警告」とみるべきで、今後、対自衛隊への戦闘行為が活発化する可能性はありますね。
 そして、このような事態が起こった以上、自衛隊は、NGOが有効に使えば、たくさんのイラク人を助けられるはずの莫大な国費を、維持費だけで垂れ流しながら、宿営地から出ずにこもっていることになるでしょう。
 ということで、人質が解放されたあとなら、日本は、「テロに屈したことにならず」、すでにイラクは安全地域ではないということを理由に、撤退できるはずです。
 いまが、かっこよく撤退できる最後のチャンスです。

   もちろん、小泉政権はやらないでしょう。いまだに、あの戦争は正しい、大量破壊兵器はあるはずだ、抵抗しているのはテロ集団だ、と主張している、ブッシュのもっとも忠実な子分なのですから。

   国民としては、せいぜい自衛隊員に被害が出るのを静観し、次の選挙で共和党が敗北して、民主党政権が米軍撤退を決めたときになれば、あわてて同調するであろう、小泉や国際感覚の欠如した「残留論者」に主張してやりましょう。(国際感覚の欠如した人間ほど、「国際的な評判を落とす」といわれると、あっさり信じてしまうものです)

   もちろん、自衛隊員に死者が出たら、一人1億の弔慰金が国庫から支出されます。20人死ねば、20億、100人死ねば、100億です。いうまでもなく、滞在費用は膨大なものとなるでしょう。その費用は、現在不況の日本で役立てれば、かなりいろいろなことができる金額です。しかし、それは、小泉政権のような政権を結果として選んだ日本国民の高いつけということです。

 こういうネタのときには、必ずあるんですが、「テロ組織は、金目当て」論、今回も出ましたね。韓国人が身代金を払ったから釈放されたというニューヨークタイムズ報道。1日もたたないうちに、公式に否定されましたが。

   ところで、江角マキコどころではなく、小泉首相が国民年金を払っていないという疑惑を、ふたたび週間ポストがすっぱ抜いているようです。やるじゃん、小泉、公用車を使って、総理大臣と自署しての靖国神社参拝を、あとになって私人としての行為と主張するだけのことはある。きみほどの、みっともない二枚舌使いはそうはいない。


(4月10日 記)

 テロに屈しない、という、一見、正論っぽい論調に同調している人たちがいる。
 しかし、はっきり言おう。それは、根本的に間違っている。
 なぜなら、今のイラクの状況は、明らかに「戦争状態」だからだ。

 その戦争状態のところに、軍隊である、迷彩服着た自衛隊を送り込んで、イラクでイラク人を大量に殺している米軍の人員や物資の輸送を手伝っておきながら、「軍隊じゃなくて人道支援」などというの自体、国際常識からかけ離れた間抜けな論法なのだ。
 戦争の理由であった大量破壊兵器はなかった。
 このことを、日本政府は認めていない。日本は、米国と並んで、大量破壊兵器はどこかにあるはずだと主張し続けている数少ない国である。
 すでに、「戦争終結」とされて以後、米兵は600人以上死んでいる。
 このことも、日本政府は認めていない。現在の戦争状態を、むりやり「テロ」とこじつけている、数少ない国の一つである。

   日本は、イラク戦争に参戦しているのである。
 その事実から目を背けてはいけないし、これほど重要なことを、人道支援などという言い換えでうやむやにしてきた日本政府に、国民はあっさり騙されてちゃいけないのだ。
 もっとも、惨敗といっていい敗戦を、終戦などと言い換えられて平気な国民なんだから、騙されやすさと洗脳されやすさは、ぜんぜん直っていないのかもしれないのだけれど。

 民間人を人質に取るのは、卑怯だと怒る論調がある。
 笑わせるなと言いたい。そんなことははじめからわかっている。
 しかし、その前に、「ありもしないものをあると主張して、喧嘩を仕掛けるのは卑怯」だと、言う方が先だろうし、そういう卑怯なやつの言うままに喧嘩に参加して、しかも、自衛隊は軍隊ではないなどというむちゃくちゃな屁理屈を、日本人相手ならともかく、外国に押しつける方が、よほど卑怯なのだ。こちらが卑怯なことをしておいて、相手にフェアプレーを求めるのは、笑止千万だ。
 卑怯だの自分は怒っているぞとか言ってる暇があったら、真面目に考えてもらいたい。

 テロに屈しない。と、小泉首相は主張する。
 では、テロとは何か。
 ベトナムで最終的に米国は撤退したが、あれは、テロに屈したことにならないのか。(たしかに、米国は国際的評判を落としたが、あれは、ベトナムから撤退したそのこと自体が問題ではなく、泥沼化させたあげくの撤退だったからだ)
 イラクで最終的に、泥沼化になって、結果、米国で反戦世論が高まるなり、今後の選挙で民主党が勝利して、米軍が撤退を決めたとしても、テロに屈しない日本は、自衛隊最後の一兵となっても、テロに屈さないのだろうか。

「覚悟を決めていっているはず」の民間人が3人殺されても、テロに屈しないはずの国家が、「もっと覚悟を決めているはずの」自衛隊員の10人や20人殺されたからって、びびって撤退はしないだろうねえ。

 もちろん、小泉首相の言っていることは、そういうことなのだろう。
 それとも、米国が撤退を決めたら、忠実な子分はあわてて撤退を決めて、それこそ、世界の物笑いになるのだろうか。

 いずれにしても、今後、自衛隊は、もう簡単に街には出られない。
 これが、たとえ身代金目当ての犯行であったとしても、同じことである。
 イラクで戦争をするために行っているわけではない(ことになっている)自衛隊は、市街戦になったとしても、防戦以上のことはできないし、その能力もない。すでに、人道支援は不可能なのだ。
 いままでだって、莫大な国費を使って、2ヶ月もいて、文房具を配るぐらいのことしかやっていないのだ。同じことをやれば、民間のNGOのほうが、1/10以下の経費で、はるかに効率よくやれるだろう。そもそも、先にバグダッドで活動をしていた民間のNGOの人々は、「自衛隊派兵は、NGOを危険に陥れる」という理由で反対していたのだ。

 いまなら、「日本は人道支援のつもりで来たが、イラクの現状は、それに適合しない。イラクが、ジュネーブ条約でいう民間人に対する攻撃の禁止すら、守られないほどの戦争状態である以上、平和憲法を持つ日本は、きわめて遺憾ではあるが、イラクに一定以上の平和が戻るまでは、憲法9条の原則に則り、撤退せざるを得ない」といえば、国際的にも、最小限の傷で押さえられる。
(この場合の「国際」とは、もちろん全世界であって、米国のご機嫌伺い、ということではない)
 あまり恥をかかず、撤退できる最後のチャンスだ。

 いずれにしても、兵法も外交も、ケースバイケースである。硬直した思考と行動は国を滅ぼす。
 また、交渉というのは、いかなる場合でも、最も重要なことだ。その交渉を自ら放棄するのは、ハリウッド映画の見過ぎではないかと思われる。  そういうことがわからないことこそが、平和ボケなのだ。


(4月9日 記)

 イラクで日本人が拘束されました。
 期限は3日で、自衛隊撤退が条件。

 同日に韓国人がやはり拘束され、彼らは無事に釈放されたという事実から、いくつかのことがわかります。

 ひとつは、彼らははじめから、「日本人」を狙っていたのであり、「韓国」を相手にする気はまったくないということ。
 これはなぜかというと、おそらく、対北朝鮮などとの歴史的な関係から、韓国の方が、テロには強行な姿勢を貫き、韓国政府が交渉に応じることはないであろうから、そもそも、人質交渉そのものに意味はないと、犯人グループが考えたのであろうということ。また、韓国は同様の理由から、テロ対策の特殊部隊の熟練度も高いと考えられます。敵に回すのは得策ではない、と判断したのでしょう。
 無事に返したのは、犯人グループは殺人集団ではなく、無益な流血には興味はないという表示でしょう。
 同時に、拘束された韓国人の方たちが、全員、キリスト教の牧師であったことから、問題を、「対キリスト教」にしたくなかったとも考えられます。

   いずれにしても、声明文の内容からしても、犯人グループに日本人が関わっているのでないとすれば、かなり、日本の世論も含めた事情に明るいグループです。そのへん、かつて、ペルーで日本大使公邸を占拠したMRTAとは、根本的に違います。

   かつてのペルー日本大使公邸事件では、事件発生直後から、「犯人グループは人質を殺さない」とTVの生放送番組で断言して、勘違いした頭の悪い人たちから「テロリストの味方をしている」等、多くの顰蹙を買いつつ、結果的に「当てた」八木ですが、今回はそのようなことは言いません。
 今回の犯人は、日本をわかっています。
 本当に必要であると判断すれば、人質に危害を加えるでしょう。
 それは、残虐だからではなく、彼らは彼らなりに、周到に準備し、腹をくくっていると思われるからです。
 おそらく、もたもたしていたら、女性は解放されるかもしれないけれど、期限の日曜日、カメラマン氏が殺害されるか、切り落とされた耳が発見されるのではないかな。

 その一方で、「自衛隊を撤退させるのは、国際社会の信用に関わる」という識者の論調、なんなんでしょうね。そんなことはありません。むしろ、撤退させる口実になります。スペインだって、列車テロを理由に、さっさと撤退表明しているじゃありませんか。これで、スペインの国際社会での信用はなくなったか、というと、そんなことはない。それどころか、そろそろ嫌気がさしているポーランドなども、さっさと同調している有様です。
 たとえば、今回、人質を取られたのが、ポーランドなりスペインなら、ほんとに、これ幸いと撤退しちゃうでしょうね。だって、そもそも大量破壊兵器が嘘、っていうこと自体で、イラク戦争は間違っているのだし、米軍の占拠も間違っているし、その米軍の要請を受けた派兵だって、間違っているのだもの。
 「自衛隊を撤退させるのは、国際社会の信用に関わる」んではなくて、「米国の機嫌を損ねる」と言い換えるべきでしょう。
 しかし、その米国でも、「イラクのベトナム化」が問題になってきています。このままでは、ブッシュの再選は危ういでしょう。そのブッシュの「忠犬」ぶって、ほめられて嬉しいか、小泉。
 テロに屈しないと偉そうに言うなら、米国主導のテロ行為にも、断固としてノーと言えなくてはならなかったのだよ。


(4月7日 記)

 阪神三連勝、と書いたとたんに、もたもたしてアップロードを忘れていたら、2連敗しやがったよ〜〜〜! しかも、今日の負け方はなんだ!
 というので、やはりアップロードをやめようかとしばらく悩んだあげく、我に返って、(なんと1ヶ月も、溜めておくばっかりで、更新してないじゃんかよ)、やはり懺悔がてら、UPしますね。
 せめてもの救いは、中日が、逆転勝ちしたことです。
 いや、阪神が負けたから、ゲーム差は付いちゃったんだけど、あの勝ち方は素敵でしたよ。
 それにしても、金力にものを言わせて強い選手を集めて勝とうなんていう、一極集中的ブッシュ的発想がプロ野球をどんどんつまらなくしていることに、どうして巨人関係者は気づかないのだろう。そして、それでも負けるのは、なぜなのかを、どうして考えようとしないのだろう。
 いや、もしかすると、巨人は自らの首を絞めることによって、プロ野球を内部から破壊するのが真の目的なのかもしれないんだけど。(田中宇氏的深読み)


(4月4日 記)

 阪神タイガース開幕直後の三連勝です。しかも、相手は巨人。
 かなり前から、「岡田監督待望論者」であった私としましては、とてもうれしいの一語に尽きます。
 ところで、巷では、北朝鮮での極秘会談が話題になっておりますが、私だって、もう時効だから言いますが、極秘会談のセッティングぐらいしたことはあるんだぞ。その昔、某球団幹部の方と、某国の大臣との.....で、それが実らなかったのは、大臣のせいでも球団幹部の方のせいでも、むろん、八木のせいでもなく、某監督が断固として話を潰したからでありました。(って、まるわかりやがな)

 その後、某国の選手が、中日に来てぱっとしないけれど、それもそのはず。その時点で、大臣は予言していたのです。
「うちの国の選手は、ひとりだけ外国に連れて行っても大成しない」
 それはなぜか。
 かの国のオリンピックレベルのスポーツ界は、選手管理が徹底しています。一人一人のデータを細かくとって、科学的にトレーニングのカリキュラムを決め、食事メニューを決め、メンタルトレーニングまで、きめ細かく行っています。つまり、選手一人にスタッフ数人がついているのです。
 だから、選手一人を外国に出しても、同じ結果は得られるわけがない。
 最低限、フィジカルトレーナーとメンタルトレーナーの2名をつける必要があるわけですね。
 なんていうと、また、「亡命のおそれがあるから、見張りをつけるに決まってるのだ」などと言い出す人がいるのだけど、そういう問題ではないのは、その国の人なら誰でもわかることです。
 なにごとでも、悪意で因縁をつけようと思えば、どうとでもつけられるわけですね。

 そういえば、80年代に、こんなルポルタージュがありました。
 キューバに行って、地方のレストランに行ったら、全部食べていないのに皿を下げられた。
 そこで筆者は、こう書くわけです。
「食糧が不足しているので、下げた皿の中身を、皆で分け合って食べるのである」
 おいおいおいおいおいおい。見てきたように書くなよ。
 これは「非常事態宣言の時代」よりかなり前の話です。なにかっていうと、大量に料理を作っては余った食べ物を捨てるので、「もったいないことはやめなさい。日本人の年寄りはな、弁当箱のふたについた米粒だって、ちゃんと食べるんだぞ」と、八木が知り合いのキューバ人に言うと、「へぇぇぇぇ〜」と、真剣に驚かれた時代です。
 要するに、たんに、そのときのウエイターが早く帰りたかっただけなんだろう。でも、疑いの目で見ると、なんだって、怪しく見えるわけです。

 この時代、フツーの人は、あまりキューバには行かなかったので、この手の「スリルとサスペンスに満ちた」いい加減なリポートは多かったですね。
 空港からホテルに向かうバスが、黒いカーテンをしていることについて、
「外国人に外を見せないようにする」説とか、逆に「キューバ人に外国人を見せないようにする」説。
 どっちもはずれです。単なる、冷房代の節約のためです。
 それと、キューバに来る観光客は、もともと東欧系の人が多かったため、外の光をまぶしがっての苦情が多かったからです。
 その証拠に、バスの運転手に「カーテン開けていい?」と聞けば、「全然問題ないよ」と答えてくれたはずです。それを訊かないで、妙な推理はやめてほしかったぞ。

 でも、皆さん、忘れてはいけません。そのようなリポートが堂々と、雑誌や新聞に掲載されていた時代があったということは、いまだって、本質は変わっていないということです。

 世間の論調がバッシングのときに、状況証拠だけで「あやしい」的な記事。
 逆に、世間が持ち上げているときに、同じく、裏もとらずに「すばらしい」。
 どちらも気をつけなくてはなりません。自戒しつつ。


(3月31日 記)

みなさま、ライブにご来場ありがとうございました。
なにせ、人数の多いバンドだけに、なかなか日程の調整がうまくいかず、しばらくぶりとなってしまいましたが、月末・年度末・土砂降りという三重苦にもめげず、ご来場のみなさま、ありがとうございました。
それから、「今日、早退したら君の席はないよ」と上司に言われた.....と怒りのメールを下さったHさん、理解のない上司には、オー人事....じゃないですね。はい。年度末にライブやる方が悪いです。次回からこのようなことはないようにしますので、ご勘弁ください。
「この日のライブにくるために、数日連続の残業で....」とやつれ果てておられたNさん、おありがとうございます。深く反省しておりますので、ご勘弁ください。

それにしても、剣道有段者のバンマス、合気道黒帯の女性ボーカルに加え、特別ゲストから、常連になりつつあるタイロン橋本さん、ラテン界のボブ・ザップを目指されるのでしょうか。少なくとも、武蔵よりは強そうだと思ったのは私だけではないでしょう。
HAVATAMPAの最強の座は、今年も安泰です。(って、なにが最強なんだか)


(3月21日 記)

 田中真紀子さん長女の記事差し止めの件で、世間が一騒ぎですね。
 こんなことで、言論の自由だの表現の自由だのとは、表現の自由って、ほんとに安っぽいものだったのね。という気はするけれど、逆に言えば、この程度のことで、地裁に出版差し止め仮処分を申請して、スピード審査がなされるというのは、あの「田中家」だからじゃないのかな。

 そもそも、いまは政治家ではないとしても、田中真紀子さんの長女なら、「跡継ぎ」として立候補すれば、(残念ではあるけれど)、間違いなく当選して国会議員になることができる人である。田中角栄氏が、いろいろな手段で築き上げた資産を受け継ぐ人でもあるのだ。今、政治家ではないし、政治家になるつもりはないから、公人ではないというのは、身勝手な論法だろう。
 権力を持つ人間(と、その周辺にいて、おこぼれに預かる人間)は、それなりの責任も負うということを、田中角栄氏は、教えなかったのだろうか。もちろん、教えなかったのだろうね。


(3月17日 記)

さて、せっかく、そろそろ暖かくなってきただろうと、日本に帰ってきて、この寒さはなんだぁ〜!
と怒りにかられております。
あてがはずれるというより先に、いきなり風邪引いてしまいまして、鼻水たらしております。
でも、これって、花粉症ではという不安も拭いきれない。あれって、突然発症するという話なので。

とおびえていたら、花粉症歴の長い知人から、
「花粉症なら、目が痒くなるわよ」
と教えてもらって、ちょっと安心。安心したからどうってことはないのだけど。

それにしても寒いです。
そして、イラクは泥沼化していくというのに、派遣された自衛隊の「ささやかな活躍」「ちょっといい話」を描く新聞報道が目立ちます。
こうやって、少しづつ、いろんなことが既成事実化していくのでしょう。

いま、天野哲夫氏の自伝を読んでいます。天野氏というのは、「いろいろと、話題のあった」方なのですが、あの「有名な文学作品」は別として(というか、いまだについていけないのですが)、いま、彼の自伝を読んで、三島由紀夫が絶賛したという彼の筆力には瞠目せざるを得ません。
戦前から戦後に書かれた克明な日記を元に復元された戦時中の日本。

他人(他国)の問題などは、しょせん他人事と思う無関心のもと、自分たちにとって気持ちの良い話題にだけは熱狂し、気がつけば、本当に戦争を始めた人たち以上に軍国主義的熱狂にはまり、そのくせ、戦争に負ければ、すぐさますべてを「戦争を始めた軍国主義」のせいにして、自分の責任を逃れた「ふつうの日本人」のご都合主義と欺瞞。そして、まさしく、その中心にいたもっとも日本人的な日本人として、皮肉にも、まさに日本の象徴にふさわしい「天皇」への辛辣なユーモアに満ちています。


(3月5日 記)

 さて、いよいよ帰国直前になって、タニア・リベルタのライブご招待。

 ブラジルのミルトン・ナシメントの曲のアカペラで初めて、アヴェ・マリアのアカペラで終わったコンサートは、彼女の円熟といってもいいレベルの高さと安定感、そして、スケールの大きさを示したものでした。風邪を引いて、喉の調子そのものは悪かったようなのだけれど、そんなこと全然気にならなかったですね。いや、すごいわ。
 そして、このコンサートでも、なぜか「人生よ、ありがとう」
 どうした。まさか、NHKの番組で取り上げられて、再ブレイクしたか。(んなわけないって)

 ええ実は、タニアの近日発売の次のアルバムは、サナンパイのナルド・ラブリンを迎えて、彼女の原点に戻ってのラテンアメリカの曲を中心にしたものなのだそうです。
 彼女の原点とは、ペルーのワルツと「人生よ、ありがとう」。
 なるほど、です。
 いいアルバムなのでしょう。それは、彼女のライブで十分に伺えました。発売を待たずに帰国は残念。
 ところで、発売を待たずにというと、旧友マルシアル・アレハンドロの出演映画と新作CDにも間に合いませんでした。じつは、デモをちょっと聴かせてもらったのだけど、数日前にレコード会社がオープンした彼のオフィシャルサイトで、皆さんもお聴きになれます。
 http://www.marcialalejandro.com/

 公式サイトといえば、やはり旧友のシンガーソングライター、ラファエル・メンドーサもライブハウスで録音した新作ライブ版CD発売を記念して、自分のサイトをオープンしました。こちらは、ほのぼのとした手作り感のあるサイトですが、彼の過去のCDの曲とかも聴けるので、是非、遊びに行ってあげてください。
 http://www.rafaelmendoza.com.mx/
 ちょうど、彼のライブも週末にあって、出かけてきました。サン・アンヘル地区に最近開店した趣味のいいライブ・カフェです。(ただし店主以外の店員は、注文を覚えられない鶏頭ばっかり)
 うーん。やっぱり、ライブはいいなぁ。3月末のHAVATAMPAライブに向けて、私もスイッチが入ってきました。日本に帰ったら、たまった雑用を片づけ、リハ突入です。


(3月1日 記)

 ハイチでクーデターが起こりました。
 日本ではどのように報道されたのかは知りませんが、メキシコでは、米国によるアリスティド大統領の恐喝的拉致による強制出国、つまり、米国がシナリオを書いたクーデターであるという見方が大きいようです。そして、おきまりの「歓呼の声で迎える市民」ですね。
 反乱の指導者であるギー・フィリップ氏は、元神父であったアリスティド大統領に解体された元国軍出身で、反乱軍の多数も元国軍。
 ハイチ国軍というと、かつてのデュバリエ親子による独裁政権時代、反対派の弾圧と拷問で定評のあったところで、それが理由で、現(いや、すでに旧となってしまった)アリスティド政権下で解体されたもの。ギー・フィリップ氏の右腕であるシャンボール氏は、その国軍では、拷問のプロとして有名だった方です。
 そういう方々が、ハイチの「自由と民主主義」のために戦ったのだそうで、政権転覆後、最初にやったことは、旧国軍の復活でした。次は、トントン・マクート(秘密警察)とゾンビの復活でしょうか。
 イラクに人々の目が向いている間も、米国はやってくれるという感じです。いや、イラクで大量破壊兵器の存在が事実上否定され、非難の声が米国内部からも上がり始めたから、その次の一手ということなのでしょうか。
 まさに、私たちは、マイケル・ムーアの言う「フィクションの時代を生きている」ようです。


(2月26日 記)

 この日本語サイトをお読みの方で聴かれた方は、もちろん、ほとんどおられないでしょうが、ラジオ2時間生番組に出演してまいりました。
 なんと、去年の秋から始まったインディーズ・レコード会社ペンタグラマとラジオ局IMERの共同プロデュース番組なのであります。この世界不況の折りに(というか不況だからなのかもしれないんだけど)、ペンタグラマは、今年夏からはTV番組もプロデュースする予定。社長、やるじゃん。
 さて、で、その番組。
 いくつもの国際音楽フェスティバルを手がけた名プロデューサー、ラウル・デラ・ロサ(というひょうきんなおっさん)をホストに、IMERのアナウンサーくんがアシスタント。
 ちょうど、メキシコ版『ローリング・ストーン』誌で、「過去10年のベスト・ラテン・ロック名盤ベスト10」に作品が選ばれ、ただいま、DVD発売キャンペーン中の「元」ペルソナルのアンドレス・アロと、八木がゲスト。
 それぞれに45分ずつぐらいのたっぷりインタビュー。
 「元」ペルソナルと書いたのは、この伝説的バンドは、メンバーの大半がエイズで死ぬという凄い原因で活動停止した、なんというかとても破滅系なグループだったのです。で、DVDは、そのペルソナルの全盛時のライブのもの。
 といっても、こういう、ステージや言動がきわめて刺激的ロック系の人は、実際にお会いすると、じつに礼儀正しくて真面目で、良いお友達になれる方だったりすることが多い(ズ〜ジャ系の人の方が、よっぽど○○だったりするぞ)のですが、この方も、いや〜真面目でしたねえ。

 そのインタビューの合間に、「メキシコ民族音楽の時間」という20分の渋いコーナーがあって(さすがペンタグラマだ)、メキシコの民俗音楽研究家の第一人者にして、国立自治大学教授であり民俗音楽研究センター研究員であり、自宅に5000種類以上の民俗楽器のコレクションを持ち、なおかつ、演奏家としても、プロとして海外公演などをこなす「ヲタクの中のヲタク (吉田憲司氏談)」ギジェルモ・コントレーラス氏(しかも、料理がうまくて、うちのご近所にお住まい)が、超レアな現地録音の音源などを聴きながら、テーマを決めて、メキシコ民謡を解説してくれるのです。

 一見、シュールかと思いましたが、いやいや。なんかそれぞれがすごいいい味を出している感じでした。ホストのおっさんのまとめと突っ込みがうまいのかもしれないけど。
 ただ、生放送中に激辛チレ味スナックを自分がつまむのはともかく、それを何気なく人に勧めるのはやめてほしかったぞ。
(むせて咳をしていたのは、八木。それでコップの水をひっくり返して、テーブルを水浸しにしたのは、ギジェルモ教授。あわてず騒がず、そのへんにあったティッシュと自分のハンカチで水を拭き取ったのはロック野郎でした)


(2月15日 記)

 金曜日、アウグスト・ブランカとパトリシオ・アナバロンのライブに行ってきました。
 会場は、メキシコシティのアラメダ公園に隣接したホセ・マルティ会館の中の劇場。
 キューバの独立の英雄であり、作家でありジャーナリストであり、思想家で詩人でもあったホセ・マルティの名前を冠した会館は、入り口にマルティのでっかい像があり、内部はちゃんと葉巻の香りが漂っています。メキシコのキューバ文化会館のような建物です。

 アウグスト・ブランカは、キューバのヌエバ・トローバ第一世代、つまり、パブロ・ミラネスやシルビオ・ロドリゲスと同期のトロバドールです。国際的にはそれほど知名度の高い人ではないのですが、新作のCDはなかなかキューバ風味濃厚で、ゲストも豪華。いいアルバムです。
 で、この世代の人は、やはり、キャラクターが濃い。ライブの存在感は強烈です。
 ドスの効いたキューバ弁でのお喋りも、爽快です。

 キューバには、91年から94年頃まで、período especial(ペリオド・エスペシアル=特別な期間)と呼ばれる、経済的政治的緊迫状況下だったときがありました。要するに、それまでキューバと交易を行っていた旧社会主義圏が崩壊して、キューバの貿易が閉ざされたうえに、ここぞと米国が経済封鎖や政治的圧力を強めたために、キューバが「食料も電気もない」状況に置かれた時代です。

 この時代、農薬や肥料も手に入らなくなったため、一念発起で、キューバが農業を有機無農薬路線に転換し、結果的に世界のモデルケースになってしまったのは有名な話ですが、おっさんはおっさんで、
「まあ、しかし我々キューバ人は、ご存じのように、物不足や停電にも、それなりの楽しみを見いだして生きていたわけでして」と、この時代の長時間停電をネタにした小咄で、お客を爆笑させるところなど、さすがキューバ人は、転んでもただでは起きないなあ。

 ほとんど息子といっていい年齢の、若いトロバドールの(キューバ在住チリ人です)パトリシオ・アナバロンと一緒に、シンド・ガライやマヌエル・コローナなどの古いトローバや自分たちの作品を弾き語り。ほんとにひさしぶりに、キューバの吟遊詩人たちの雰囲気に浸ることできました。
 会館のメンテの問題なのか、(でもリハーサルではちゃんと機能していたらしいんだけど)、照明が十分でなかったり、音響に問題があって開演が半時間ほど遅れたうえ、ちょうど、同じキューバのトローバの大物パブロ・ミラネスのコンサートと時期的にもろにバッティングしていたため、お客の入りも今ひとつだったのが、残念でした。


 そして、翌日。パブロ・ミラネスのコンサート。

 新しいアルバムの新曲と定番のヒット曲を取り混ぜての内容でしたが、どことなく違和感。
 往年の熱気というか、鳥肌の立つようなパワーが感じられず、新曲というのも、なんか悲しげな曲ばかりで、「あれ?」という感じ。

 あとは、昔のヒット曲も、それを期待しているわけではないのだけど、メッセージ色のあるものや、盛り上げ系の明るいソンなどはひとつもなく、スローバラードのラブソングばかりで、確かに歌は文句なしにうまいんだけど、高声の伸びもいまひとつで、「パブロ・ミラネスも盛りを過ぎたなあ.....それにしたって.....なんとなく、暗いなあ」と、欲求不満になりそうな感じだったのです。

 ところが、最後のアンコールで、
「今から自分の一番好きな歌を歌いたい。自分にとって一番大切な歌で、一番尊敬する作曲家の作品です」
といって、なんと、『人生よ、ありがとう』を歌ったのです。

 これがですね。

 すくなくとも、20年近く付き合いのあるパブロ・ミラネスが、あの歌を歌うのを聞いたのが初めてだったということをさておいても、たぶん、わたしが今までに聴いた中で、文字通り、「最高の」ヴァージョンでした。

 ごく淡々と歌っただけなのですが、なんというか凄いものがあったのです.....。
 なんというか、頭が白くなって、目頭が熱くなるぐらい、ま、はっきりいうと、感動したのです。

 当たり前に解釈すれば、時代は変わっても、パブロ・ミラネスという歌い手は初心を忘れない(=変わっていないし、これからも変わらない)という意味だと思うのですが、それとはべつに、同時に、彼は、なんというか、死を意識している気がしました。

 で、うまく説明はできないけれど、なんか「すげえいやな感じ」がして、コンサート終了後、楽屋に飛んでいったら、ライブ直後倒れて、すぐに運ばれたとのこと。

 いちおう、その時点ですぐ生命の危機ということではないようで、しかも、もともと癌との闘病・再発を繰り返してきた人ですが、ただ再発しているのであれば、今度のは、肉体的にも精神的にも、かなり彼に打撃を与えているのでは、という気がしています。

 もちろん、また、復帰してくれるとは思いたいのだけど、たぶん、彼自身、何か感じているものがあるのかもしれません。

 翌日、友達(元サナンパイの弦楽器奏者で、パブロとも面識がある)にその話をしたら、やっぱり
「それって、やばいんじゃ」

 ううむ。
 罪作りというか、意味深な歌です。


(2月10日 記)

 数日前からメキシコに来ています。
 今年のメキシコはまたまた異常気象らしく、12月に雪が降ったとか。
 いまでも、朝方にはダウンジャケットを着て歩いているメキシコ人がいるほど。
 でも、実際には、さほど寒いわけではなく、昼間はやっぱりTシャツ一枚の人が多いですね。
(一説によると、白人系の人は、基礎体温が37度と高いので、寒さを感じにくいという話もありますが)

 私の家のあるコヨアカンでは、最近、朝食を食べながら、なんとなく窓から外を眺めていると、電線をリスが走っていく姿が見られます。なかなかのどかな光景ですが、近所の人によると、果物や花が荒らされて大変だとか。
 蜂鳥も、よく見ると、ライラック色のハカランダの木の回りを飛び回っていて、シティとは思えない暢気さです。

 そのメキシコシティも、かつてない不況だとか。といわれても、日本もかつてない不況なので、どちらがどれだけ深刻といえるものでもありません。ただ、メキシコ人の方が経済危機慣れしているだけに、日本のような妙な暗さがないのは救いです。

 我が友マルシアル・アレハンドロくんは、なんと、映画俳優デビュー。
 てっきりインディーズ系低予算ものだと思っていた(失礼!)ら、ヨーロッパや米国からもスタッフを招いたという、メキシコ革命の英雄サパタを描いた大作映画で、しかも、彼は、サパタの側近という重要な役。モレロス州での7週間にわたるロケでは、銃とギターを背に馬に乗っていたそうで。(歌うシーンもあるそうです)
 革命家サパタがマジックマッシュルームを食べてトランスするシーンがあるなど、かなり話題を呼ぶ場面があるらしいのですが、果たして、日本で公開されるのでしょうか。
 いずれにしても、マルシアルの10年ぶりのアルバムも発売になるそうで、彼にとっていい年になりそうです。

 そんなこんなで、コンサートもそこそこ。土曜日はパブロ・ミラネスのライブがオペラハウスの市立劇場であります。久しぶりに旧交を温められそう。

 ベネズエラについで、ペルーでもコカ栽培の農民が爆発寸前らしく、これから(報道的に)面白くなるのはラテンアメリカかもしれません。

 イラクの大量破壊兵器に関するブッシュの嘘がばれて、再選の可能性が遠ざかったという知らせに、まだ、アメリカ合衆国にも救いはあるという気がしますが、そのブッシュの言いなりにイラクに自衛隊を送った小泉政権に対する視点は、まだまだ甘いなという気がします。


(1月28日 記)

 いやあ〜。運の悪いことって続くものですね!

 せっかくハードディスクを大容量にして喜んだのもつかの間、愛用のパソコンMacintosh G4がふたたび調子が悪くなってしまいました。起動エラー続出です。
 交換したハードディスクのせいではなく、本体の問題のようです。

 とにかく、知っている限りの技を尽くして、最低限必要な書類などのバックアップをとることには成功したのですから、まあ、不幸中の幸いですが。
 去年から、メキシコ国立自治大学や上智大学の先生と共同で行っていた日本文化紹介のプロジェクトの書類(超労作)も無事だったし、国際ボランティア団体に協力して手がけていた大量の文書も救えたし。(このあたりが一緒に全部ぶっ飛んでいたら、それこそ、ムンクの『叫び』であります)

 でも、とにかく仕事にならないので、予備のiBookを出してみると、これがなんと....! バッテリーがご臨終のようです。
 おいおい、何で、予備のまで同時に問題が出るんだい。

 もっとも、メキシコに持って行く前に気がついたのがまだしもでした。出発の前の日なんぞに気づいていたら、対処の使用もない。
 とにかく、知り合いのプロのマッキントッシュの修理屋さんに電話をかけると、さすがに持つべきものは友達です。
「メキシコに行くのはいつ? 2月はじめ?。なら、今すぐ速攻で送ってくれたら、出発までに何とかしてあげよう」
 その場で、クロネコヤマトに電話。これも不幸中の幸い。というかむしろ、運がいいというべきかもしれません。

 問題のG4のほうも、データのバックアップが本当にちゃんとできているかどうか確認したら、追って、送ることにしました。私がメキシコにいる間にゆっくり修理してもらえばいいし。
 修理費用だけが、ちょっと心配ではあるけれど、それは、まあなんとかなるでしょう。

 一方、この間、東京で一人暮らししている親戚から「急病SOS」発信。高熱を発して倒れたらしいので、食料品を持って救出に。行ったついでに、「片づけられない症候群」独身一人住まい宅の大掃除までやる羽目に。
 もっとも、命に関わるような大事でなかったのも、不幸中の幸い。

 .....そんな中で、例の二つのプロジェクトはほぼ完成させて、一安心。(いや、完全に終わるまで気を抜いちゃいけないんだけど)

 今日は、別のお友達から、新鮮なブロッコリーとカリフラワーをたくさん送っていただきました。
 さっそく、好物のブロッコリーのサラダを作って食べて、あとは中華にしてもいいし、カリフラワーは、グラタンにしたらおいしいだろうな。マリネにしても絶品なんですよね。

 それはいいんだけど、いま新聞やTVで話題の足立区の新聞配達所での殺人事件。あれ、うちの近所です。というか、あそこでうちも新聞配ってもらっています。そういえば、昨日、いつもと違う人が集金に来ていたではないか。
 あまりの忙しさに、朝刊の記事を読み飛ばしていたけれど、後で、気づいて「そういえば」。

 日常は、常にスリルとサスペンスに満ちております。


(1月11日 記)

 おくればせながら、あけましておめでとうございます。
 大晦日にファイルを入れ替えたつもりが、なぜか古いのを入れ直してしまい、新年早々、クリスマスのメッセージが出たりしていましたが(爆)、まあ、あれは旧年のエラーということでご容赦下さいませ。

   さて、年明け早々、限界に来ていたPower Mac G4、改造計画に取りかかりました。なんたって、いまどきハードディスクが10Gしかなかったので、最近のソフトなどいろいろいれるとすでに飽和状態だったのです。しかも、その調子が悪い。
 ということで、あるオタクな方のお力添えで、ハードディスクを一気に120G(12倍だぜ)に取り替え、メモリも832M搭載。
 パーティションを3つに切っても余裕しゃくしゃく。Photoshopがさくさく起動。iTuneもがんがん。
 といっても、パソコンに詳しくない方にはなんのことだか意味不明でしょうが、要するに、大幅パワーアップしたというわけでございます。
 あこがれのMac OSX Pantherもインストールできました。もっとも、私のスキャナもCDRも、OS9にしか対応していないので、しばらくはクラシック環境での使用になるのですが。
 かえすがえす、パソコン(とくにマッキントッシュ)に詳しくない方にはなんのことだか意味不明でしょうが、要するに、八木は非常に喜んでいると。

 こうして、今年は真面目に仕事するぞと、とりあえず心に誓ったりするのでした。

 その手始めというわけではないですが、じつは、年末から昨日にかけて、このサイト、それから私が手がけているHAVATAMPAのサイト、そして、写真家の岡部好さんのサイトなどをマイナーチェンジしていました。最初に作ってから、増築を重ねるように継ぎ接ぎしていたファイルとフォルダを整理し、画像ファイルも大幅にダイエット。
 見た目はほとんど同じですが、かなり表示速度が上がっていると思います。ブロードバンドの人はともかく、普通の電話回線やISDNの方には、体感速度が倍以上違うはず。また、Netscape 7.0をお使いの方にも、HAVATAMPAサイトの表示がかなり変わったかなと思います。
 いつかやらないといけないと思いながら、面倒なのでついつい先延ばしになる作業を、気合いを入れて数日で片づけるというのは、大掃除と同じですね。
 そういえば、昨年末の大掃除も盛り上がってしまいました。例年なら、レンジ台を磨いていて一日終わってしまうので、あとはどうしても目立つところを拭いて終わりだったのですが、例の「柑橘の皮と重曹を使う掃除法」を覚えて以来、レンジ台はいつもぴかぴかで改めて掃除は要らないし、換気扇なども、重曹を溶かしたぬるま湯に一晩漬けておいて、さっと拭くだけでつるつるなので、他のところに目がいってしまったわけで。

 その柑橘。夏みかんやハッサク、グレープフルーツの皮なら、油汚れの拭き掃除にいいし、普通の蜜柑なら、陰干ししておいてお風呂に入れると、市販の入浴剤より良いようです。
 と、使い倒していたら、その功徳か、大量の無農薬夏みかんをもらってしまいました。近所の人が、どこぞで取ってきたそうで。
 「マーマレードでも作りませんか」
 試しに、生で食べてみたら種が多くて酸っぱいのなんの。さすがに、農薬をかけずとも鳥も虫も食べないと見たぞ。
 でも、いまどき貴重な無農薬なので、さっそく、マーマレードを作ることにしました。
 これも、無農薬の柑橘が手に入りにくいのと、面倒くさいので、ずっと作っていなかったもの。まず、夏みかんを縦に4つに割り、皮を取って、身を袋から出します。皮は白いところをこそげて、2回ぐらいゆでこぼして、さらに一晩、水につけて苦み抜き。
 漬けた水をなめてみると、蛍も飛んで逃げそうな苦みが出ています。
 それから、次の朝、この皮をさらにもう一度ゆでこぼして、ホーローの鍋で、刻んだ皮の3分の1と実を、3割から半量ほどの砂糖でことこと。
 これだけ苦み抜きをしたにもかかわらず、さすがに野生の夏みかんは、苦みも酸っぱさも強いので、砂糖は思ったよりたくさん使ってしまいました。
 残った皮は、マーマレードを作ったあとの鍋で、同量の砂糖で煮込んで、焼菓子用のオレンジピールをつくります。コレ、買うと高いのよね。
 苦みと甘みのバランスがマーマレードの命で、そのへんは個人の好みにもよるのですが、かなりの砂糖をぶち込んでも負けないしっかりしたコクのある味わいのある、おいしいマーマレードができました。


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