ビオレータ・パラ

 しばらく前、新聞の一面のある記事が、私の目を釘づけにした。
 南米の細長い国チリで、1973年から89年まで軍事独裁政権を敷いていたピノチェト元大統領が免責特権を剥奪され、軍政時代の人権抑圧を司法の場で裁かれる可能性が濃厚になってきたというニュースが、写真入りで大きく報道されていたのである。
 アウグスト・ピノチェト。彼は、チリで数万人といわれる行方不明者とその数倍に及ぶ政治亡命者を生みだし、いくつかの国際テロを指示し、そして、音楽を禁じていた。
 ちょうど地球の裏側で、この報道の意味することを噛み締めている人たちのことを思いながら、私は、古いLPレコードを引っ張り出してきて、針を落とした。

 ビオレータ・パラを語らずにチリを語ることはできない。文字通り、彼女はチリを代表するといっても過言のない人である。
 それはべつに、贔屓でもなんでもない。なぜなら、カトリック国でもあるチリの首都のサンティアゴを訪れれば、そこの大教会の鐘の音は賛美歌ではなく、彼女の曲なのだから。パリのルーブル美術館で最初に個展を開いたラテンアメリカ人は彼女だったのだから。そして、なによりも、好きか嫌いかは別として、スペイン語圏で彼女を知らない人などほとんど存在しないのだから。
 それほどまでに有名な彼女は、しかし、不遇と数奇な運命にさらされた人だった。
 1917年、チリ南部の小さな村サン・カルロスで生まれた彼女は、家族とともにチリ南部の町や村を転々とした。この旅の中で、天然痘を移され、命は取り留めたものの、顔には痘痕が生涯残ることになる。
 そして、もともと薄給の音楽教師だった父親の早逝もあって、幼い頃から、彼女は、道ばたや列車の中、酒場や食堂などで歌ったりして小銭を稼ぎ、十代ではすでに、ドサ回りのサーカス団を渡り歩いていた。勉強はできたものの、そういう事情で、小学校に行くのがやっと、中学校は一年で辞めてのことだ。
 そんな貧しい一家の期待の星は、長兄のニカノールだった。家族の期待を受けて、苦学しながらも首都サンティアゴの大学で学んだ彼は、後にチリを代表する詩人となり、ノーベル賞詩人パブロ・ネルーダらと親しく交わるようになるのだが、この、当時大学生だった兄の助力で、ビオレータもサーカス団をやめ、首都に出て、学校に入ることになった。
 とはいえ、十代半ばで、すでにエネルギッシュに働くことを知った彼女は首都の学校にはなじめない。すぐに学校を辞め、再び、姉のイルダとともに酒場で歌い始めるのだった。
 こんな生活を続けながら、19歳で彼女は、鉄道労働者ルイス・セルセーダと結婚し、イサベルとアンヘルの二人の子供を産む。そして、子育てが一段落すると、また彼女は飲み屋に歌いに出た。このことが、夫との亀裂を生み、10年で二人は離婚に至る。
 その後、彼女は、オペラ歌手でもある家具職人ルイス・アルセと再婚して、兄弟たちも加えて、歌と芝居の地方巡業の一座を組み、チリ各地を回り始めた。彼との間には、カルメン・ルイサ、ロシータ・クララという二人の娘をもうけるが、その頃から、彼女はチリのフォルクローレ(民俗音楽)の研究を始めるようになった。
 研究といっても、言うまでもなく、机上の分析や、あるいは録音機を持ったフィールドワークではない。彼女は、とても彼女らしいやり方、つまり、自分が巡業で旅したチリの地方の町や村、鉱山や農村をくまなく歩いて、人々との交流の中から、自分自身を録音機として民謡を覚えていったのである。
 それまで、チリの民謡といえば、ハンカチを持って男女が対になって踊る軽快な6/8拍子の舞曲クエカか、ゆったりした歌曲形式のトナーダぐらいしか知られてはいなかった。けれど、ビオレータは、南北に細長く、それゆえに地域差が大きく、バラエティに満ちていたチリの民謡の数々、たとえば、シリージャ(チリ南部チロエ島付近の6/8拍子の舞曲)、レファローサ、さらには「聖なるものへの歌(カント・ア・ロ・ディビーノ)」「俗なるものへの歌(カント・ア・ロ・ウマーノ)」といった弔歌などを次々に掘り起こしていった。歩ける地域だけではない。巨石で有名なイースター島の、文化的には中南米というよりポリネシア系の音楽も、彼女は後に録音に残している。
 その一方で、彼女が他の民謡研究者と決定的に違う点がもう一つあった。彼女は民謡を学び、それを再現するだけではなく、民謡の形式を借りて、自分の作品をも作っていた。
 もともと、中南米の民謡には、民謡歌手が即興的に作っていくものも多い。そういう点では、伝承曲のコピーよりも、そういった民謡の形式に則った自作自演こそが民謡の本領ともいえる。こうして、民謡の歌い手でありつつ、すぐれた詩人であり作曲家としての彼女の才能が花開き、彼女の作品が後にチリのフォルクローレの代表的な存在として、広く知られていくようになるわけだ。そして、それだけではない。チリの農村や鉱山地帯の貧困を目の当たりにしていた彼女の作る歌は、いつしか激しい社会告発の色を帯びることとなっていく。
 やがて、兄のニカノールの勧めもあって、彼女は、芝居巡業をやめて、本格的に民謡の調査にとりかかることになった。
 この一連の仕事が、やがて少しずつ理解者を得るようになり、53年、彼女は、ラジオ局で民謡の番組を持つことができ、また、54年には、チリ最良の民謡歌手に与えられるカウポリカン賞を受賞するにまで至った。
 とはいっても、彼女の調査研究に援助があったわけではなく、わずかな収入はかつかつの生活費と調査費に消えるだけだった。チリのオスカーといってもいいカウポリカン賞の授賞のときですら、会場への入場料すらなかったほどだという。
 いずれにしても、この受賞がきっかけで、彼女は文化交流事業のチリ代表としてポーランド公演に招待されることになった。そして、そのまま2年にわたって、彼女はフランスに滞在する。これが原因で、2度目の夫と別れることになるが、その一方で数枚のレコードを録音することになった。もちろん、この滞在も、スポンサーがあったわけではなく、歌って日銭を稼ぎながらの暮らしだった。しかし、その間、半ば趣味として作っていたタペストリが、高い評価を受けることになる。ルーブル美術館に認められて、一ヶ月以上にわたる個展を開き、大好評を博したのだ。
 その後、彼女はチリに戻り、フォルクローレが常時演奏されるテント形式のライブハウス『カルパ・デ・ラ・レイナ』をオープンする。しかし、彼女がもっとも愛した祖国で、彼女のやろうとしていたことは評価されなかった。皮肉にも、テントを訪れるのは外国人観光客ばかりだったのである。
 支援者は少なく、もともとエキセントリックだった芸術家肌の彼女は、さらに追いつめられ、ヒステリックになっていく。そして、決定的なことが起こる。彼女が当時深く愛した若い恋人、ジルベール・ファブレまでもが彼女の元を去ったのだ。 
 数度の自殺未遂。そして、別れと経済的困窮が決定的になったしばらく後、彼女は最高傑作と呼ばれる、世にも美しい詩を持つ歌『人生よ、ありがとう』を残して、ピストルをこめかみに撃ち込んだのだった。
 自由で、奔放で、損得勘定も処世術もなく、ただ過激なほどに熱く、激しい。
 まさにそのような生き方であり、死に方だった。
 彼女の残した多くの作品が、敬意を持って語られるようになるのは、それから数年後のことだった。そして、いつしか、彼女の歌は、シャンソンのエディット・ピアフやジャズのビリー・ホリデイのように、チリの音楽の不滅の象徴として、愛されるようになる。
 そして、1973年、ピノチェト元大統領の起こした73年の軍事クーデターで、すべてはふたたびひっくり返された。ビオレータを誰よりも敬愛し、すぐれたフォルクローレ歌手であり、シンガーソングライターだったビクトル・ハラは惨殺された。ビオレータの歌も禁じられ、歌手となっていた長女のイサベルと長男アンヘルは亡命を余儀なくされた。それ以来、ビオレータの歌は、ビクトル・ハラの歌と並び、チリの抵抗運動のシンボルともなったのだった。
 多くの人々を死に追いやったピノチェト元大統領は、訴追されることになるらしい。
 しかし、いまだ軍政が続いていた折りですら、人々が、大教会の鐘の音のメロディとして『人生よ、ありがとう』を選んだとき、おそらくそれは決まっていた運命なのかもしれなかった。

追記:
この記事執筆時点(2000年)のイギリスでの訴追は結果的には、ピノチェトの健康状態を理由にならなかったが、後、2004年12月、チリ本国でピノチェトは起訴され、チリ人自身の手で裁かれる可能性が高まっている。