フォルクローレの魅力

 激動といわれた時代、60年代から70年代に青春時代を送ったならば、好き嫌いは別として、あの空前のブームを記憶にとどめていない人はないだろう。
 それは、サイモンとガーファンクルという二人組の若者の曲として、多くの人々の前に姿を現した。洗練されたデュエットの後ろに流れた哀愁ある芦笛の音が話題となり、インカ帝国という謎めいたフレーズが、さらに魅惑を掻きたてた。
 そして、戦後それぞれにブームを作ったシャンソンやカンツォーネやタンゴやラテンといった言葉に続いて、いくらか遠慮がちに、フォルクローレという言葉が、日本に届いたのだった。

 フォルクローレという言葉は、スペイン語で民間伝承という意味がある。つまり、本来は、民俗音楽のことだった。
 中南米という地域では、コロンブス到着以前からのもともとの先住民で、インカ、アステカ、マヤといった古代文明を育んだ民族でもあるインディヘナ(インディオと呼ばれることもある)の人々と、彼らを征服したスペイン人やポルトガル人、そして、後に奴隷として連れてこられたアフリカ系の人々の血が、500年の間に深く入り交じってしまい、それゆえに、独特の混血文化が生まれている。
 だから民謡といわれる音楽も、先住民音楽とヨーロッパ音楽、それにアフリカ音楽の入り交じった独特のものとなってしまった。
 そして、60年代頃から、アルゼンチンなどでは、首都ブエノスアイレスの都市音楽として生まれたタンゴと区別する意味で、純然たる民謡だけではなく、地方の民俗音楽のエッセンスやリズムを広く取り入れたポピュラー音楽も、フォルクローレと呼ばれるようになったのである。
 こうして、フォルクローレはどんどん進化していくことになった。田舎の共同体の祭りの土臭い民謡、というだけではなく、ラジオなどで流されるようになり、この中から、スターと呼ばれる人々も出てくるようになった。
 アルゼンチンからは、アタウアルパ・ユパンキ、そしてメルセデス・ソーサといった人々の作品が人々に深く愛されるようになり、また、隣国のチリからはビオレータ・パラ、ビクトル・ハラといった人々が、政治にまで影響を与えるほどの存在となった。もちろん、それだけではない。ウルグアイのアルフレド・シタローサ、ダニエル・ビリエッティ、ペルーのチャブーカ・グランダやニコメデス・サンタクルス、ベネズエラのソレダー・ブラボ、メキシコのロス・フォルクロリスタスやオスカル・チャベスなど、偶然とはいえ、まるで示し合わせたかのように、この60年代から70年代にかけて、すぐれた歌い手たちが、綺羅星のように活動を始めたのだ。
 もちろん、歌い手たちだけではない。
 アルゼンチンの生んだ名ギタリスト、エドゥアルド・ファルーは言うまでもなく、中南米でまさしく生まれ育った楽器たちにも、それぞれ天才といわれる演奏家たちが続々と輩出された。これは、中南米出身の演奏家が出稼ぎでヨーロッパに演奏に出かけることで、ヨーロッパのセンスを身につけたり、また、エスニック音楽に興味を持ったヨーロッパの演奏家が、フォルクローレの世界に参入したりしたことも大いに関係がある。
 たとえば、ボリビアのエルネスト・カブールは、それまで伴奏楽器にしかすぎなかった、アルマジロの甲羅で作られた小型ギターのチャランゴを、その超絶技巧で、独奏楽器の地位にまで押し上げた。ペルーでは、素朴な芦笛のケーナを伝統的に演奏するアレハンドロ・ビバンコやリラ・パウシーナといった人たちがいる一方、西洋楽器に技法を取り入れて、高度な演奏を行うスイス出身のレーモン・テブノーやファシオ・サンティジャン、ラウル・メルカードらが話題を集める。パラグアイのアルパ(ハープ)でも、フェリクス・ペレスーカルドーソやクリスティアノ・バエス=モンヘスが華麗な指さばきを見せる。
 こうして、さらに洗練されたフォルクローレは、ラテンアメリカの文化を代表するものとして、世界に紹介されてゆくことにもなった。
 サイモンとガーファンクルの採りあげた『コンドルは飛んでゆく』の世界的ヒットは、まさにその象徴的なものだったのである。

 というわけで、フォルクローレというのは、実際にはかなり幅が広い。
 広大な中南米にはざっと数えても、20以上の国があって、それぞれに民族の混血の度合いや文化が違っているのだから仕方がないのだが、いわゆる『コンドルは飛んでゆく』のスタイル、つまり、ケーナとチャランゴとギターとボンボと呼ばれる木をくりぬいた大きな太鼓を使うスタイルは、ペルーやボリビアからアルゼンチン北部のアンデス山脈地方のスタイルで、2拍子系の音楽が多い。もっともその中でも違いがあって、ペルーの音はどこか哀愁が強くて、アルパ(ハープ)を使うことも多く、ボリビアは太めのケーナやサンポーニャという細い芦を束ねて作ったパンパイプをよく使い、力強い。また、同じペルーでも、アンデス山脈を下って海岸地方に行くと、ギターとカホンと呼ばれるシンプルな箱形のパーカッションを用いる、黒人色の強いアフロペルー音楽がある。
 それから南下してアルゼンチンの平野部にいくと、ケーナは姿を消して、ギターとボンボと歌、というスタイルが一般的になり、さらにラプラタ河を越えてウルグアイに入ると、ギターとボンボと歌という楽器編成は同じでも、どこか黒人のリズム感覚がひょっこりと感じられてくる。その一方で、その北のパラグアイは、がらりと変わって、アルパ(ハープ)音楽が盛んになっている。
 ブラジルの音楽はそれ自体でファンも多くて、ここであえて紹介をさけるけれど、再び北側に目を向けると、クアトロという独特の音色を持つ4本弦の楽器を使うベネズエラの音楽、黒人色の強いコロンビアの音楽、さらに中米、メキシコと、日本ではほとんど紹介されていないものを含めて、フォルクローレというのは、かなりバラエティに富み、豊かなものなのだ。
 これが、まさに前述の60年代から70年代、アメリカ的価値観に一石が投じられた折からのベトナム戦争などの影響で、まさに中南米の人たちにも、北の超大国アメリカの影響からの反動として、強く受け入れられ、ある意味では、ナショナリズムの象徴として政治的な意味までを持つことになったのだった。
 そして、そのことは、フォルクローレという音楽にエネルギーを与え、また、中南米の国のアーティスト同士の交流を生んで、さらに豊かなものを作っていくきっかけになったと同時に、不幸な運命も与えることになった。
 当時の米ソ対立の中で、やがて、当時のチリのもっとも代表的なフォルクローレの歌い手だったビクトル・ハラが虐殺された73年のチリの軍事クーデターなどを皮切りに、中南米各国が次々に軍事独裁政権に支配されるとともに、音楽までもが、弾圧を受けるようになってしまったのである。
 こうして、多くの音楽家が国外亡命などに追い込まれたり、政治亡命には至らなくとも、外国での演奏活動に活路を見いださざるをえなくなった時代が70年代の後半から80年代にかけて起こる。そして、アフリカ音楽やアジア音楽がワールドミュージックとして、脚光を浴びはじめたその傍らで、根を失ったフォルクローレは80年代中盤から、緩やかな沈滞の時期を迎えたのだ。

 とはいえ、数年前から、ふたたび、流れがゆっくり変わっているかのように見える。
 折しも、中南米でも90年代に入って、軍事政権は姿を消し、若い世代から演奏家たちが現れ、またその中からヒット曲が生まれてきている。チリのイリャプの『愛から遠く』は空前の大ヒットとなり、アルゼンチンのペテコ・カラバハルは『青い星』で一躍有名人になった。ロック歌手として人気のあったフアン・カルロス・バグリエットがフォルクローレとタンゴだけを歌ったアルバムもベストセラーとなる。
 日本でも、サイモンとガーファンクルのデュエットをリアルタイムで知らない若い人たちが、改めて、現代社会での癒しの音楽として、フォルクローレに耳を傾けはじめているという。
 まだまだ、かつての名盤が十分にCD化されているとはいえないけれど、是非、この機会に、その豊かさゆえに激動の運命をたどったフォルクローレに耳を傾けていただきたい。